京都・東山にある安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)は、「縁切り・縁結び」のご利益で知られる全国でも珍しい神社です。
しかしその背景には、ただの恋愛の縁切りとは異なる、深い怨念と歴史的な悲劇が存在します。
今回は安井金比羅宮の御祭神・由緒・縁切り信仰の由来・参拝方法・注意点まで、詳しくまとめてご紹介します。
安井金比羅宮の基本情報
- 所在地:京都府京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70
- 最寄駅:京阪電鉄「祇園四条駅」より徒歩約10分
- 主なご利益:縁切り、縁結び、悪運払い、再生の祈願
- 御祭神:
- 崇徳天皇(すとくてんのう)
- 大物主神(おおものぬしのかみ)
- 源頼政(みなもとのよりまさ)
項目 | 内容 |
---|---|
神社名 | 安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう) |
ご利益 | 縁切り、縁結び、悪縁断ち、再出発 |
御祭神 | 崇徳天皇、大物主神、源頼政 |
菊花紋 | 正式には使用されていない |
特徴 | 怨霊信仰から生まれた強いご利益の神社 |
参拝時の注意 | 心を整え、敬意をもって参拝すること |
崇徳天皇とは?縁切り信仰の原点にある”日本三大怨霊“
● 近親相姦の出生と帝位を巡る悲劇

崇徳天皇(1119〜1164年)は、父・鳥羽天皇と、実はその継母だった璋子(しょうし)の間に生まれたとされ、その複雑な血筋により、「忌むべき子」として冷遇されて育ちました。
やがて政治闘争に巻き込まれ、「保元の乱」(1156年)で敗北し、讃岐(現在の香川県)へ流刑されました。以後、都へ戻ることは叶わず、怨みを募らせながら崩御したといわれています。
● 怨霊として恐れられたその後

- 平安末期の権力闘争の中、崇徳天皇は父・鳥羽上皇の策略により政治的に失脚
- 保元の乱では後白河派に敗北し、四国に流される
- 崇徳上皇は仏教に帰依し写経するも、朝廷に拒絶され、「魔道に捧げる」と激怒
- 以降、火災、飢饉、政変等が相次ぎ、「崇徳の祟り」と噂される
- 怨霊鎮めとして”崇徳院”の称号が贈られるも、武士政権の台頭等大きな歴史変化が起こった
死後、京都では大火・疫病・天変地異が相次ぎ、「崇徳院の祟り」と恐れられるようになります。
朝廷はようやくその霊を鎮める為、神として手厚く祀ることを決定し、その一つが安井金比羅宮とされています。(※ちゃんと成仏していたらいいんですけどね)
何故「縁切りの神」になったのか?
流刑先の讃岐で崇徳天皇は、最期にすべての執着を断ち、仏道に入り「写経千巻」を朝廷へ献上しました。
しかしそれすらも受け入れられず絶望し、「我、魔王となりて日本を呪わん」と宣言したとされる有名な逸話が残ります。
この「全ての欲を断った」姿が、
・人間関係
・悪運
・病
・執着 等、人生における様々な「悪縁を断つ」力と結びつき、この「恨み・未練・執着を断ち切ったこと」から、「悪縁を断ち切る」象徴とされ、縁切り信仰へと発展しました。
伝説によれば、崇徳院は死後に怨霊として都に災厄をもたらし、丁重に祀ることでその怒りを鎮めたとされています。
何故【大物主神】が関係あるのか?
① 金刀比羅信仰と大物主神の結びつき
安井金比羅宮の「金比羅神(こんぴらのかみ)」は、本来「大物主神」や「崇徳天皇」と重ねられて信仰されています。
特に、瀬戸内の金刀比羅宮(香川県の総本宮)では、大物主神が主祭神とされている為、京都の安井金比羅宮でも影響を受けている可能性があります。
つまり大物主神は「金比羅信仰=海・縁切り・災厄除け・浄化」と深く関係する神であり、呪いや因縁、厄除けといった霊的文脈において重要な存在です。(※大国主命(おおくにぬしのみこと)の「和魂(にぎみたま)」または分身ともされる存在とのこと)
何故【源頼政】が関係あるのか?
① 崇徳天皇と源氏の因縁
崇徳天皇が失意の末に怨霊化した背景には、源氏・平氏・貴族勢力の対立があります。特に、源頼政は平安末期に崇徳院以後の乱れた朝廷と戦う運命を辿りました。
頼政の挙兵(以仁王の令旨に従っての平家討伐)は、怨霊化した天皇の時代の「因縁の清算」と見ることもできるのです。
② 鵺退治と怨霊の象徴性
鵺は「正体不明な怪異」=「世を乱す象徴的な悪」とされ、崇徳天皇のような怨霊と重なるイメージを持っています。
頼政はこの怪異を弓で討ったことで英雄になった=「怪異(怨霊)」に立ち向かった存在とも言える。
③ 安井金比羅宮近辺と関係
安井金比羅宮のある京都東山周辺には、源氏や平家、そして崇徳天皇に関係する霊的・怨念的な伝承が多く残されています。
頼政の終焉の地・宇治もそう遠くなく、「近畿圏の怨霊信仰」として地理的にも結びついています。
要素 | 大物主神 | 源頼政 |
---|---|---|
信仰的な繋がり | 金比羅神として祀られる | 怨霊(崇徳天皇)の時代と戦った人物 |
役割 | 縁切り・厄除け・霊的浄化 | 妖怪退治=怨霊の象徴への対峙 |
象徴 | 神そのもの・蛇神・浄化 | 武士の信義・忠義・怪異退治 |
関連 | 金刀比羅宮の本体信仰 | 怨霊伝説の文脈に登場 |
安井金比羅宮の見どころと参拝方法
1. 縁切り縁結び碑(いし)

神社の中央にある高さ1.5m・幅3mほどの巨大な石が「縁切り縁結び碑」。
中央に丸い穴が開いており、以下の手順で参拝します。
【参拝手順】
- 本殿にお参りし、縁切り・縁結びの祈願をする
- 「形代(かたしろ)」という紙に願い事を書いて身代わりとして持つ
- 縁切りの場合は、碑の穴を表から裏へくぐる
- 縁結びの場合は、穴を裏から表へくぐる
- 最後に、形代を碑に貼り付けて完了
※くぐる時は「静かに、心を込めて」が大切。
2. 現代の呪詛と絵馬文化

境内には無数の絵馬や形代が貼られており、その中には悲痛な願いや強い想念も多く見られます。
いわゆる「ドロドロした人間関係の断ち切り」や「ストーカー被害・依存症・虐待・家庭問題」等、真剣な願いが集まる場です。
- 安井金毘羅宮等の縁切り神社にて、恋愛・家族・職場など様々な「悪縁」切りを願う絵馬が奉納されている
- 中には「死んでほしい」「呪い殺す」等、非常に強い悪意を込めた絵馬もあり、名前や住所まで記載されたものもある
- これらは神道的な「願い」を越えた、もはや”呪詛“に近い行為である
- かつて存在した「丑の刻参り」や能『鉄輪』など、日本の呪術文化との繋がりがある
菊花紋は使われている?
「十六八重表菊(16菊花紋)」は、皇室専用の家紋です。
(例えば伊勢神宮、靖国神社、明治神宮等)
安井金比羅宮は崇徳天皇を祀る神社ですが、公式に皇室の紋を掲げているわけではありません。
装飾や意匠として、菊のような模様が見られることはありますが、正式に16菊花紋が許可されているわけではない点は注意しましょう。崇徳天皇を御祭神としている為に、装飾や意匠の中に類似した紋様(例えば菊花模様)が使用されていることがあります。
これは装飾的なものであり、正式な「皇室の家紋」としての使用ではありません。
参拝前に知っておきたい注意点
安井金比羅宮は「軽い気持ちで行くべきではない」とも言われる神社です。
実際に、以下のような注意を呼びかける声も多く見られます。
❖ 心構えとしての注意点
- 人の悪縁を断つ場所=重い念が集まりやすい
- 軽率に願いを書くと、自分の縁も意図せず切れる場合がある
- お祓いやお清めを事前・事後に行うのが望ましい
- 心の整理がついていない状態で参拝すると、逆効果になることも
❖ 参拝マナー
- 午前中等清浄な時間帯の参拝がおすすめ
- 願いを込めたら、最後に感謝と報告を忘れずに
- 他人の貼った形代を見たり撮影するのはマナー違反
真剣な想いと向き合う神社
安井金比羅宮は「願いがよく叶う神社」としても知られていますが、裏を返せば「真剣な願いでなければ応えてもらえない」とも言われます。
もし今、人生のどこかで苦しみを抱え、縁を断ちたい・新たな道を開きたいという思いがあるなら、その覚悟を持って静かにお参りしてみてください。
「願いは自由。ただし、聞き入れるかどうかは神の裁量」
最後に
崇徳天皇(すとくてんのう)は、平安時代末期の天皇であり、讃岐に配流された後に数々の和歌を詠んでいます。特に『詞花和歌集』や『続詞花和歌集』等に所収されています。
その中から有名な一首をご紹介します。
❖ 崇徳天皇の和歌(『詞花和歌集』より)
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
(せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすえに あわんとぞおもう)
意味
急流が岩にせき止められても、川は分かれてまた再び一つになるように、例え今は別れていても、いつかきっとあなたと再び巡り逢いたい――という情熱的な恋の歌です。
背景
この歌は恋の歌としても解釈されますが、崇徳院自身の境遇(流罪、失脚、孤独)とも重なり、「分かたれども、やがてまた結ばれたい」という願いが深く感じられる歌とされています。
崇徳天皇は怨霊とされるイメージとは裏腹に、繊細で情感あふれる和歌を多く残しており、歌人としての評価も高い人物だったそうな。終わり。
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