時に、他者の感情の爆発や制御不能な怒りを目にすることがあります。
その背景には、単なる苛立ちでは片付けられない、より深く複雑な心理が潜んでいることがあります。今回焦点を当てるのは、まさにその一つである心理学で語られる「ナルシスティック・レイジ」です。
この概念は、前回での記事で登場した漫画「死役所」に登場する、死後も反省の色を見せない死刑囚たちの姿や、社会で時に見られる「見せかけの成功」の裏側にも通じるものがあります。自己愛が暴走する時、何が起こるのでしょうか。
ナルシスティック・レイジとは何か?
ナルシスティック・レイジとは、自己愛性パーソナリティ障害を持つ人々が自分の完璧な自己像や特別視されたい欲求が脅かされたり、批判されたり、軽視されたと感じた際に、激しい怒りや攻撃性を示すことを指します。
これは通常の怒りとは異なり、その根底には非常に脆弱な自己肯定感と、肥大化した理想的な自己像が存在します。
「ナルシスティック・レイジ(自己愛的激怒)」という用語は、精神分析医のハインツ・コフート(Heinz Kohut)によって導入された概念です。
彼は1972年の著作や論文でこの用語を使い、自己愛性パーソナリティの人が、自身の自尊心や自己価値に対する脅威を感じた際に示す、激しい怒りや復讐心について詳しく分析しました。
ナルシシズム(自己愛)という概念自体は、フロイトの時代から精神分析で使われていましたが、「ナルシスティック・レイジ」という特定の感情の表現とそのメカニズムを明確に定義し、自己心理学の重要な概念として提唱したのはコフートです。
「自分は特別で優れている」という確信:
彼らは、常に賞賛され、特別な扱いを受けるべきだと強く信じています。
批判への極度の過敏さ:
わずかな批判や、自分の思い通りにならない出来事でも、その自己像が崩れることへの激しい恐怖を感じます。
他者への共感性の欠如:
自分の感情や欲求が最優先であり、他者の感情や権利を理解し、尊重することが極めて困難です。
これらの心理が複雑に絡み合い、自己が傷つけられたと感じた瞬間、まるでダムが決壊したかのように制御不能なほどの激しい怒りや、相手を徹底的に貶めようとする攻撃性として噴出するのが、ナルシスティック・レイジなのです。
「反省しない魂」の裏にあるもの
漫画「死役所」に登場する死刑囚たちが、死後もなお反省の色を見せず、自己中心的な態度を続ける描写は、このナルシスティック・レイジの概念と深く結びつきます。
彼らの「反省の欠如」は、自分の非を認めることが、完璧な自己像を傷つけるという恐れから来ている可能性があります。「自分が間違っているはずがない」という強固な信念が、客観的な事実や他者の痛みを受け入れることを拒絶するのです。
また、共感性の欠如は彼らが犯した罪の重さを心から理解することを妨げます。他者を自分の欲求を満たす道具と見なしたり、自分の怒りや不満の捌け口としたりする傾向は、ナルシシズムの顕著な特徴です。
多くの凶悪犯罪者、特に死刑囚の中には、このナルシスティックな傾向が見られると指摘されています。彼らは自分の非を認めず”他者のせいにする、他者に共感出来ない、自分はルールや常識を超えた存在だ”という「特権意識」を持つといった特徴が見られます。
こうした魂の状態は、とあるチャネラーが死刑囚を霊視した際に「多重人格のような支離滅裂なメッセージ」と「自己中心性」を感じ取ったということでした。(会話したくない気持ちになったほど・・・)自己愛に囚われた魂は、内面が混乱し、一貫性を欠いたメッセージを発するようになる可能性も考えられます。
サイコパスに見られる「人前では外面が良いが、場所によって演じ分ける」という特徴は、彼らの内面の混乱をより深く示唆します。まるで複数の仮面を使い分けるように、社会に適応する理想の「良い自分」を演じ続けることで、「いつしか、どの自分が本当なのかわからなくなる」という状態に陥る可能性もあります。この自己同一性の拡散が、チャネラーが見たという「多重人格のような支離滅裂なメッセージ」として現れるのかもしれません。
彼らは他者を支配しようとする一方で、自分自身の内面を統制出来ず、結果として混乱した魂の状態にあると考えることもできます。
親からの愛の欠如、そして「魂段階」という視点
犯罪心理の分析でよく「親からの愛の欠如」が挙げられますが、この言葉は多角的であるべきです。完璧な親は存在せず、どんな家庭でも愛情表現が足りないと感じる瞬間はあり得ます。しかしもしスピリチュアルな視点で「魂の段階が生まれつき極端に少ない」存在があるとするならば、それは親の養育環境だけで全てが決まるわけではない、という理解もできます。
魂の成熟度や、今生で学ぶべきカルマ、あるいは特定の課題を持って生まれてくる魂があるならば、親がどれほど努力しても、子が特定の行動パターンや感情の癖を持つのは、親だけの責任ではない、という見方もできるでしょう。
私たちは皆、それぞれの魂の段階や課題を持って生まれてきており、それが親子の関係性にも影響を与え、時には犯罪という形で現れる複雑な要因の一つとなり得るのです。
DEATH NOTEの夜神月(ライト)とMONSTERのヨハン・リーベルト
ここで話は一転します。
漫画の世界には、読者の心を引きつけずにはいられない魅力的な「悪役」が存在します。彼らの行動は時に常軌を逸していますが、その背景にある心理を深掘りすると、人間存在の複雑さが見えてきます。
特に印象的な二人、『DEATH NOTE(デスノート)』の夜神月と『MONSTER(モンスター)』のヨハン・リーベルトを比較し、彼らの対照的な「悪」の根源を探ってみましょう。
まず夜神月の根底にあるのは、歪んだ正義感と極度のナルシシズムです。彼は自分こそが「新世界の神」であり、裁く側の人間であると信じ込んでいました。
動機:
「悪を駆逐し、理想の世界を創る」という、彼なりの正義感。しかし、その正義は自己中心的で、自分の意に沿わない者は全て「悪」と見なす独善的なものです。
手段:
緻密な計画性と知性を用いて、ルールの中で(デスノートという特殊なルールですが)他人を操作し、支配します。
感情:
普段は冷静沈着ですが、計画が狂ったり、自尊心が傷つけられたりすると、途端に激しいナルシスティック・レイジ(例:Lに追い詰められた際の奇声、最後の取り乱した姿)を見せます。彼は基本的に人間らしい感情の揺れ動きが少なく、自分自身への絶対的な信頼と自己陶酔に浸っています。
目的:
究極的には、自分が支配する理想の世界を築き、その「神」として君臨すること。自己顕示欲が非常に強いタイプです。
夜神月は自分は正しいと信じ、その信念の為にどんな非道なことも正当化する点で、ナルシシズム的な傾向が強いと言えます。
彼の崩壊は、自己の絶対性が脅かされたナルシスティック・レイジの典型的な現れです。
一方、MONSTERのヨハン・リーベルトは、夜神月とは全く異なる種類の「悪」を体現しています。彼の場合は、自己の存在の虚無感と、他者の人生を操り、破滅させることへの執着が根底にあります。
動機:
自身のルーツや存在意義への深い虚無感。彼は特定の思想や目的を持つわけではなく、「誰かにとってのMONSTERになること」、つまり他者の人生を意のままに操り、絶望させ、破壊すること自体が目的であるかのようです。
手段:
圧倒的なカリスマ性、知性、洞察力を用いて、他者の心に深く入り込み、無意識のうちに破滅へと誘導します。 彼は直接手を下すことは少なく、言葉や暗示、心理操作によって相手を自滅させることを得意とします。
感情:
感情の起伏をほとんど見せず、常に穏やかで微笑みを浮かべているのが特徴です。その表情の裏には、人間的な感情が欠落しているかのような冷徹な虚無が感じられます。夜神月のような感情の爆発(レイジ)はほとんど見せません。
目的:
自身の存在が世界を破壊する「MONSTER」となること、そして自身の存在を消し去ること(あるいは、全ての痕跡を消し去った上で死を迎えること)を望んでいます。自己顕示欲よりも、自己消滅や他者の破滅への「贈与」のような側面が強いです。
ヨハンは、まさに「サイコパス」の典型的な特徴を持つキャラクターと言えます。良心の呵責がなく、他者への共感が皆無でありながら、非常に高い知性と社交性で人々を魅了し、操ります。
彼の悪は、自己愛からくるものではなく、存在そのものから滲み出る虚無感と、それによって他者を蝕む静かな毒のようなものです。
このように、二つの「悪」の形を比較することで、人間心理の多様性とその奥深さを改めて感じることが出来ます。彼らそれぞれが持つ根本的な心理の違いから生まれていると言えるでしょう。
まとめ・ナルシスティック・レイジの理解が示すもの
ナルシスティック・レイジは、単なる感情的な爆発ではなく、その人の根深い心理構造と深く結びついています。それは、死刑囚が示す「反省の欠如」の裏側や、サイコパスが演じる顔の背後にある内面の混乱として現れることがあります。
この概念を理解することは、人間の行動や心理の複雑さを深く洞察する手がかりとなります。そして、それは私たち自身の心の在り方や、他者との関係性を見つめ直すきっかけにもなるでしょう。
他者の言動や社会の現象に触れる際、表面的な情報や見せかけの数字に惑わされず、その本質や背景にある真実を見抜く目を養うことが重要です。それは凶悪犯罪者の深層心理を理解する上でも、SNSで本当に価値ある情報を見つける上でも、そして何より、私たち自身の「生」と「死」、そして「魂」について深く考察する上で、かけがえのない視点となり得ます。


.
コメント