日本史の中でも、あまり深く語られることのない「倭寇(わこう)」。
14世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸、更には東南アジアまでを舞台に暴れまわった”海賊“たち。
しかし本当に彼らは単なる海賊だったのでしょうか?
今回は、倭寇の正体とその背景、そして豊臣秀吉や天草四郎との意外な繋がりを探っていきます。
倭寇とは?単なる「日本の海賊」ではない
「倭寇」とは、朝鮮や中国の記録に登場する呼称で、日本人を中心とする海賊集団を指します。
しかし実態は時代によって姿を変える多国籍の武装集団でした。
・前期倭寇(14世紀中心):日本の南朝勢力と結びついた九州の水軍や高麗人等が参加。
・後期倭寇(16世紀中心):中国人が多数を占め、日本人の比率はごくわずか。密貿易や海禁政策への反発を背景に活動。
その実力は、「海賊」という言葉では到底収まらない軍事力と組織力を誇っていたのです。
倭寇は国家の運命をも左右する存在だった
倭寇は単なる略奪者ではなく、時には国家の存亡に関わる存在でした。
高麗王朝を崩壊へと導いた影
倭寇は朝鮮半島の漕倉(食糧庫)や港湾施設を襲撃し、王朝の物流を断ち切りました。
捕虜を売買し、日本や琉球への人身売買ルートを築く等、倫理を逸脱した活動も。
高麗は日本に対し、倭寇の取り締まりと捕虜の返還を求める外交交渉を繰り返しました。
しかしその間にも、倭寇の脅威は拡大し続け、ついには高麗の統治基盤を揺るがすほどに。
若き指導者「阿只抜都」と、李成桂の運命の戦い
倭寇のリーダーの中には、15〜16歳の美少年とされる「阿只抜都(あきばつ)」という存在がいます。(写真が見当たらないので敵のを↓)
https://ja.wikipedia.org/wiki/李成桂
彼は高麗軍と激突し、大打撃を与えますが、最終的に李成桂によって討ち取られます。
李成桂はその功績で名を挙げ、後に高麗を滅ぼして朝鮮王朝を建国。
まさに「英雄と英雄の邂逅」であり、ここに一つの時代が終わりを迎えました。
この「若きカリスマ的指導者」の姿は、後に島原の乱を指導する天草四郎時貞と重なる部分があります。
宗教・貧困・抑圧に苦しむ民衆を率いて、国家権力に挑む姿は、時代を超えて繰り返される”革命“の物語なのです。
豊臣秀吉と倭寇の終焉

倭寇の活動が終焉を迎えるのは、まさに豊臣秀吉の登場以後のことです。
秀吉は1587年、バテレン追放令を発令し、南蛮貿易とキリスト教の制限に乗り出しました。
これは、倭寇や密貿易を通じて広がる外国勢力(特にポルトガル)への牽制でもありました。
さらに秀吉は、”文禄・慶長の役(朝鮮出兵)“を行い、日本の軍事力を朝鮮・明へと直接ぶつけます。
この大規模な国家戦争の前では、もはや倭寇のような”非国家的軍事組織“は必要とされなくなったのです。
つまり秀吉は倭寇の歴史に幕を下ろした男とも言えるでしょう。
後期倭寇の正体は「海の裏経済」
16世紀になると、倭寇の主力は中国人やポルトガル人となり、活動も単なる略奪から密貿易ネットワークへと変化します。
・海禁政策に反発する中国商人
・南蛮貿易の利権を求めるヨーロッパ勢
・勘合貿易崩壊後の日本勢力
こうした多国籍勢力が交錯し、倭寇は「海上の裏経済圏」を形成していったのです。
もはや「日本人海賊」という枠組みは意味をなさない時代でした。
天草四郎と倭寇の歴史的共鳴

17世紀初頭、キリシタン弾圧と重税に苦しむ九州の民衆の前に現れたのが、天草四郎です。
若干16歳の少年が、3万人を超える信徒を率いて島原・天草一揆を起こし、幕府軍に立ち向かいました。
興味深いのは、天草地方はかつて倭寇の活動拠点の一つだったという点です。
南蛮貿易、キリシタン、貧困、民衆の反乱。それらは、かつての倭寇の時代とも共鳴します。天草四郎は、「倭寇の精神を受け継ぐ最後の英雄」だったとも言えるのではないでしょうか。
余談ですが、天草四郎はアルクトゥルス魂のよう・・・ですよ?
教科書の向こう側にある「もう一つの日本史」
倭寇とは単なる海賊ではなく、時には軍隊であり、外交勢力であり、民衆の希望だった。
その歴史は、豊臣秀吉の国家統制によって終焉し、やがて天草四郎のような”最後の反乱者“へと受け継がれていきます。
彼らの存在を通して見えてくるのは、権力に抗う者たちの系譜です。
それは、今なお続く「民衆 vs 権力」の歴史そのものかもしれません。
倭寇をただの海賊と呼べますか?
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豊臣秀吉と関係があった織田信長についてです。
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