生きるとは

精神世界
「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があるが、
以下の点が少し引っ掛かる。

そういったカルマが何であったのか その一つ一つを
思い出す必要も 知る必要もありません。
ただただ 手放せばいいのです。
すべてから解放され 自由になるのです。

この部分が問題で、多くの人々にとって誤解を招くだろう。
一つ一つを思い出す必要はないかも知れないが、
理解をするためには思い出していく作業が有効的である。
思い出す必要があるのは、今まで理解に繋げずに生きてきたからだ。

もっとも、過去は現在に集約されているので、
「今」を内観すれば良いのだが、今を観ても納得できないのが人間で、
やはり過去を辿って行くのが最もベストな方法なのである。

心の学校のメルマガでこのような記事があった↓

過去を変えると未来は変えられます。
では自分の過去はどこにあるのでしょうか。
それは自分の心の中にあるのです。
ですから自分の心が変わると過去が変わるのです。
過去の延長線上が未来なのですから、
極端に言えば、過去さえ変えれば、未来は変わるのです。

過去にあった事は大した問題ではありません、
その出来事をプラスに受け止めるか、
マイナスに受け止めるかで、ガラッと違うのです。
「あの時辛い思いをしたから、今、本当に人の痛みが
わかるようになれたんだ」と思えれば、
過去に対する思いは変わります。

そのことによって、過去にあった事実さえも修正できるのです。
その心で未来を歩むのですから、未来は良くなってあたり前なのです。

あなたが今、仮に、恐怖・心配・不安に悩まされ、
どうしていいかわからない苦境にあるとしても、
それは外界の出来事のせいではなく、
あなたの心の中にその出来事を「苦しい」と
捉えている何かの原因が存在しているのです。

私たちの目の前に起きる現象は映画館のスクリーンに
映し出された映像のようなものです。
そしてそのフィルムにあたるのが私たちの心なのです。
目の前に起きる現象を変えるには
そのフィルムである心に手をつける必要があります。

そして心が変わったことで
過去に対する思いが全く変わり、
起こる出来事が全て好転してきます。

それが「最強運」の人生なのです。
「内観瞑想」「止観瞑想」「対人関係調和の瞑想」「真我実現法」
の4つに分けられているが、実際には4つとも内観である。

「内観瞑想」は一般的な内観だが、次のように説明されている。

生まれてから今日までの自分の思ったことや行なったことを調べ、
現実の自分を知っていただきます。
それと同時にこの人生で、生まれてから今日まで関わった
多くの方々から頂いた愛を思い出すことで、
心の奥底にある真我の愛の泉からプラスのエネルギーが引き出され、
本当の自分に出会うことが可能となります。
結果、何気なく過ごしてきた生活に感謝と生き甲斐を発見します。
(中略)……このように、客観的に自分を観察していくと、
今までの自分がいかに至らない自分であったかが見えてくると同時に、
自分の愚かさや未熟さを嫌というほど見せつけられるでしょう。

自分の愚かさや未熟さを嫌というほど見せつけられ、
自己嫌悪に陥っては元の黙阿弥である(笑)

ただし、人間的に愚かな点や未熟さは誰にでもある。
いわゆる「欠点」と呼ばれているものである。
これについては直そうとせずに、認めるだけでよい。
「そのままでいい」というのは、そのことに関してである。

続いて「止観瞑想」、すなわち日本版ヴィパッサナー瞑想である。

心にひっかかっている問題やわだかまりとなっている出来事の
根本原因を追及し、自分の思い方の癖を発見します。
その時、心の中に溜めてしまった悲しみ・怒り・恐れ等の感情を、
瞑想の中で解放していきます。
その結果、心の傷は癒され、心の曇りが晴れていきます。

内観によって根本原因を追及し、瞑想の中で解放することが重要なのだ。

アセンションの心構えとは「死の心構え」でもある。
アセンションの意味は「キリストの昇天」で、
死後復活によって肉体のまま次元上昇することである。

死の直前、人は人生をパノラマのように思い出すという。
これは人生の最期に内観をさせられているのだが、
それによって改心の余地が与えられているのである。

隈本確は「死ぬ瞬間の意識が最も大切」だと言っている。
『日月神示』や他の霊界通信でも同様の話があったと思うが、
死ぬ瞬間というのは結局、人生の集大成であり、
死ぬ時の意識は潜在意識(カルマの浄化度)によって決まる。

死後も精霊界の「エンマの鏡」で自分の人生が映し出されるという。
だが、この時はもう改心の余地はほとんど残されていない。
自分の本性を明らかにし、どの霊界に行くかを決めるためのものなのだ。

『日月神示』にも次のように示されている。

「肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ」

この意味することを説明しておこう。
霊体意識や幽体意識は、肉体意識と比べて感情が希薄となる。
また、霊界は「過去・現在・未来」が同時に存在しているため、
因果律というものを実感することができない。

その為に、過去から未来に流れる時間軸の人間界に「カルマ」を投影し、
肉体意識で様々な感情を味わい、「理解」するために生まれてきたのだ。

サイババはカルマを解消するエネルギーを人々に与えていたが、
カルマを解消するために霊性修行(瞑想・マントラ)を説いていた。
そして、カルマについて次のように述べている。

人はカルマによって生まれ
カルマに従事して生き、カルマのせいで死ぬ
カルマはまさしく神であり
人の幸福と不幸の原因である

聖者ヨグマタが説くカルマは、私のカルマの定義と同じである。

「日本語では業といわれ、思いと行為のこと。考えること、
思うこと、感じること、行動することはすべて内外の行為であり、
それは記憶となって体と心にその印象が刻まれる。
そして外からの刺激により、それが活性化され、
カルマの記憶は再びカルマのアクションを引き起こす」

ヨグマタもカルマを解消するエネルギーを人々に与えているが、
それで完全にカルマが解消するわけではなく、
カルマを解消のために瞑想を習慣にすることを説いている。

サマディは光明、悟り、エンライトメントともいわれる。
サマディにもいくつかの段階があるが、真のサマディ(究極のサマディ)は、
すべてのカルマを浄め、心を超え、心臓・呼吸も含めた
あらゆる生命活動を止め、死を超えて、純粋な存在になること。

その他、釈迦やイエスなど古今東西の聖者の中で、
カルマを説かなかった者はおらず、一様に内観を説いているが、
「ネガティブな感情を手放すだけでいい」と説いた者はいない。

「ネガティブな感情を手放せ」とは言ったとしても、
それでカルマが解消したり、逃れたりすることはできない。

ヒマラヤ聖者の「タイガー・スワミ・ナゲンドラ・ナート・
バドリ・マスター・マハサヤ」は、このように述べている。

わたしは長年、厳しい内観の行を続けてきました。
それは至難な英知への道です。
自分の心の動きをあくまで冷酷に凝視する厳しい自己観察は、心身を損なうほど痛烈な苦行です。
これによって、心の底に巣食う最も頑固な自我を粉砕してしまうのです。
こうした真の自己分析は必ず、真理を洞察する覚者を生み出します。
これに反して、自我を容認するいわゆる“自己表現主義”は、
神や宇宙に対して自分勝手な解釈を施して譲らない
自己本位な人間をつくってしまいます。

人間は、自分の心の醜さに目を閉じて自分をごまかしている間は、
永遠の真理を理解することはできません。
人間の心の中を洗いざらい明るみに出してみれば、
過去幾生涯の間に無数の迷いによって歪められた醜さが、
正視に耐えないほど充満しています。
この心中の敵との戦いに比べれば、戦場の戦などは物の数ではありません。
心中の敵は、力ずくで絶滅できるような生やさしい相手ではありません。
この“無知な欲望”という敵は、至る所に潜んでいて、
巧妙な策略と恐るべき有毒兵器を隠し持ち、眠っている間でも、
たえず我々を殺そうと狙っているのです。

感情を体験し、カルマを理解するために肉体を持ったのだが、
内観をするときは観念と感情を外して客観視する必要がある。
そして浄化が進んで意識レベルが上がってくると、
感情が稀薄となり、現象(カルマ)に対して感情に左右されなくなる。

テンテンの言葉で言えば「マインドを薄くする」ということだが、
マインド(感情)を薄くしようと努力してできることではない。
テンテンは「修行するな」と説いているが、
「内観」という修行なしにマインドを薄くすることはできないだろう。

『日月神示』でもメグリ(カルマ)を浄化することが
説かれているが、手放せとは言っていない。

「むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、
くやくしなったりするのは、まだメグリあるからぢゃ」

「メグリは一家分け合って、国中分け合って、借銭なしにしてくだされよ」

「今度は借銭なしになるまでやめんから、
誰によらず借銭なくなるまで苦し行せなならんぞ。
借銭なしでないとお土の上には住めんことに今度はなるぞ」

「この道に入ってはじめの間は、かえって損したり馬鹿みたりするぞ。
それはメグリ取っていただいているのぞ。
それがすめば苦しくてもどこかに光見いだすぞ。おかげのはじめ。
次に自信がついてくるぞ。胴がすわってくるぞ。
心が勇んできたら、おかげ大きく光り出したのぢゃ」

「メグリと申すのは、自分のしたことが自分にめぐってくることであるぞ。
メグリは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。
祓いせよと申してあることは、何もかも借銭なしにすることぞ。
借銭なしとはメグリなくすことぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。
それ払ってしまうまでは、誰によらず苦しむのぞ。人ばかりでないぞ」

「その人間にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。
人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。
一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。

善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり、試練であるぞ」

「祓いせよと申してあることは、何もかも借銭なしにすることぞ。
借銭なしとは、めぐりなくすることぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。
それ払ってしまうまでは誰によらず苦しむのぞ。
人ばかりでないぞ。家ばかりでないぞ。国には国の借銭あるぞ」

「隠し立てはできんぞ。何もかも帳面にしるしてあるのざぞ。
神の国に借銭のある臣民は、どんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ。
家は家の、国は国の借銭済ましが始まっているのぞ。
済ましたら気楽な世になるのぞ。世界の大晦日ぞ。
みそかは闇と決まっているであろうがな。
借銭返すとき辛いなれど、返したあとの晴れた気持ちよいであろうが。
昔からの借銭ざから、素直に苦しみこらえて、
神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやり方に返してくれよ」

メグリのことを「借銭済まし」とも表現されているが、
「カルマを手放せ」というのは自己破産することと同じである。
自己破産は法律上は借金が帳消しになるが、
決して「借銭済まし」が済んだわけではない。

私はリアルな意味で借銭済ましが出来ていない^^;
だが、いずれ完済できることが分かっているので全く悩んでいない。
むしろ、心の中では過去完了形で「完済した」と決定している。

カルマに囚われている状態というのは、
多重債務で苦悩している状態と同じである。
従って、「カルマを手放せ」と表現は、
カルマの観念に縛られてはいけないという意味なのだ。

否、縛られて苦悩することも経験なので良いのだが、
それによって「気づき」と「理解」を得ることが重要なのである。

「膿出し」=「産み出し」という表現は正しいと思うが、「手放す」の意味を取り違えると、
「膿出し」をしなくてもいいということになってしまう。
従って、このような説明は危険思想に繋がりかねないので、

私はこのような角度からの説明を控え目にしているのだ。

とは言うものの、別の一面的な見方をすると、

本質的にはカルマは存在しないともいえる。

■5大方便(罪と罰・カルマ・輪廻・地獄・プラス思考)を斬る

いわゆる「罪と罰」と呼ばれるものは「カルマの法則」のことである。
また、カルマを刈り取ることが出来なかった場合、
地獄に落ちたり、輪廻を繰り返したりすることになる。

これらすべては迷いの世界での幻の現象であり、
本質的な話をすれば、カルマも六道輪廻も実在ではない。
当然ながら、人間界も幻であり、自分という存在も幻である。

カルマが実在ではないことは、ある意味で事実だが、
「カルマは存在しない」という一面だけを信じるのも危険である。
人生での出来事を「理解」に繋げることが出来ず、

潜在意識(カルマ)の浄化や意識進化の道を閉ざされるからだ。

カルマが実在ではないというのは、
人間界も幽界も実在ではなく、人間も輪廻も幻影だからである。
だが、自分が人間界に人間として生きているという確信を持っているなら、
カルマだけが存在しないことを信じるのは唯物論者と同じである。

人間界は幻であり、自分という人間も幻であり、
輪廻も幻であることを理解しているなら、カルマも幻であることが分かる。
しかし、それを理解するということは、カルマの結果で人間界に生まれ、
自分という人間が存在していることを「理解」するということでもあるのだ。

あくまでも投影だが、人間界は存在し、自分という人間も存在し、
厳然と存在するカルマの法則に基づいて輪廻転生が繰り返されているのだ。
カルマの法則を理解し、カルマを浄化するために生まれてきたと言ってもいい。

つまり、「カルマを手放せ」という教えは人生の目的を放棄するようなもので、
人間界や人間の存在そのものを否定することにも繋がってしまうのである。

「時間」についても同じことが言える。
時間は本当は存在せず、観念が作り出していると言われているが、
実際に深い瞑想に入ると「無時間」の次元に入る。
何かに熱中している時も時間のスピードが速く感じるだろう。

本質的には「時間はない」と言えるのだが、この人間界では
我々は時間の流れの中で存在していることは事実なのだ。

バシャールも次のように言っている。

「幻想というのは、あなたがその中にいるうちは現実です。

幻想の中にいるうちは、それはれっきとした現実なのです」

これは決して、釈迦やオコツトの話とは矛盾していないのだが、
理解する為には様々な角度からの説明が必要となる。

カルマには「個人的カルマ」と「宇宙カルマ」がある。
どちらも本質的には同じだが、「個人的カルマ」は
現世で人間として生きている自分のカルマのことなのだが、
厳密に言えば「自分固有のカルマ」というものは存在しない。

ジョセフ・マーフィーはこのように説明している。

ジョンとかメアリーというような個人とは、
それぞれの信念、思考、感情の総体にほかなりません。
私たちは唯一の霊を、信念、印象、条件などで色付けして型取るのです。

たとえば、ニューヨークに住んでいたジョンが死んだとしても、
ジョンのものであった個性は、世界中のあらゆる存在の中で生き続けます。
今、地球上のどこかで男女の交接あれば、ジョン固有の振動、音調、
性質がそこに宿って受胎することになります。
その受胎は中国や日本やその他の場所でも起こり得ます。

こうして無限なるものが固有の性質を帯びて顕現してくるのです。
ただし、その個人は私たちが知っているジョンその人ではありません。
その個人は、かつてジョンとして顕現していた
無限なるもののある音調が再現したものなのです。
ジョンの死と同時に、その振動が他の国や民族の中の一人として再現します。

インドの聖者カルキ・バガヴァンは次のように説いている。

人は悟らないで死ぬと、ヴァサナ(香り)のプールの上に行く。
そこで花弁が散って落ちるように、
ヴァサナ(体験や過去から持ち越した質)がプールの中に落ちる。

そのプールには、色々な人から落ちたヴァサナが一体となっており、
次に生れてくる時はヴァサナのプールの上に行き、
自分が執着しているヴァサナを選んで身に纏い、人間界に誕生する。

つまり、過去世は様々な人間の経験のヴァサナを集めたもので、
そのヴァサナがその人の意識に流れているだけなので、
自分に固有の過去世は存在しない。

色んな時代の色んな人間のヴァサナが集まって、
その人の性格や趣向を形成しているだけので、
何にも執着する必要もなく、自他の別は存在しない。

これもマーフィーの輪廻転生論と同じような内容だが、
同時に、カルマは人類共有のものだという事がよく分かる。

「膿出し」=「産み出し」というのはカルマの決算である。
「今や あなた方は重要な岐路に立っています」というのは、
現在の終末が「宇宙カルマの総決算」の時期だからである。

宇宙カルマの全責任は宇宙の創造主が背負っているが、
「人間=大宇宙」で、自分に全責任があるということである。

「個人的カルマ」を解消し、カルマの法則から解脱しても、
宇宙創造神が全カルマを背負っている以上、
決して「宇宙カルマ」から逃れることはできないのである。

また、戦争や天変地異などは人類の集合的無意識のカルマだが、
自分の潜在意識を通して、自分の世界に映し出しているのである。

自他一体に於いて、人類は1つである。
故に、集合的無意識は「自分」である。

そして全ては、自分が「自分の世界」に投影していることなのだ。
「自分の世界」というのは、自分が生きていると錯覚している
外側の世界、大宇宙(人間界)のことである。

ただし、これをネガティブに捉えるべきではない。
カルマの清算(潜在意識の浄化)は人間が生まれた目的であり、
新しい宇宙の創造という宇宙進化への唯一の道なのである。

それゆえ私は、個人的に無関係なことであっても、
ひたすら謝罪と感謝をしているのである。
それが「2012年」に与えられた私の使命であり、
世の中を「真のポジティブ」に転換するための仕事なのだ。

理解できなくても、ホ・オポノポノの実践あるのみである。

せめて、そのことを理解しておかないと、
カルマの法則は「強制内観」を求めてくることになる。

『大本神諭』には次のように示されている。

「この筆先は、世界のことを気もないうちから知らしてあるから、
疑うていると後で取り返しのできんことになるぞよ。
後の後悔は間に合わんぞよ」

「これだけ気つけているのに、聞かずして、我と我が身が苦しみて、
どんじりで改心をいたしてももう遅いぞよ。
厭な苦しい根の国、底の国へ落とされるから、
そうなりてから地団駄踏みてジリジリ悶えても、
そんなら許してやるということはできんから、十分に落ち度のないように、
神がいやになりても人民を助けたい一心であるから、
何と言われても今に気をつけるぞよ」

「めぐりの出てくるのは、世界はこれからであるぞよ。
高いところへ上がりて偉そうにいたしておりた人民、
これからは気の毒なことに変わるぞよ。
そこになりてから神に縋りたとて、聞き済みはないぞよ」

「天地のびっくり箱が開くと、天地が一度に鳴り出して、
耳も、目も、鼻も飛んでしまうような、えらい騒ぎになりて、
どんな悪の強い身魂でも、学のある守護神でも、ジリジリ悶えいたして、
一度に改心をいたすなれど、そうなりてからの改心はもう遅いぞよ」

「九分九厘になりたら、手のひらを返すぞよと申してあるが、
そうならんと守護神も人民も改心をいたさんが、
恐さの改心は真の改心ではないから、間に合わんぞよ」

「大峠が近寄りたから、もう改心の間がないから、もう一度気をつけるぞよ」

「厭なことを目の前にして見せてやらんと承知がいかん浅ましきものであるから、
にわかにジリジリ舞わなならんことが出てくるぞよ。
そうなりてから走り込んで来て、どうぞ助けてくれと申しても、

そんなことにはかかりておれんように忙しくなりて、それどころでないぞよ」

『日月神示』にも同じようなことが書かれている。

「智慧でも学問でも、今度は金積んでもどうにもならんことになるから、
そうなりたら神を頼るよりほかに手はなくなるから、
そうなりてから助けてくれと申しても間に合わんぞ」

「またたきの間に天地引っ繰り返るような大騒動が出来るから、
くどう気つけておくぞ。
さあという時になりてからでは間に合わんぞ。用意なされよ」

「大峠となりてからでは、いくら改心しますと申しても、
許してくれと申しても、許すことはできん」

「大峠の最中になったら、キリキリ舞いして、
助けてくれと押し寄せるなれど、その時では間に合わん。
逆立ちしてお詫びに来ても、どうすることもできん。
皆おのれの心であるからぞ。今のうちに改心結構」

「真っ只中になりたら、学でも智でも金でもどうにもならんことになるのぢゃ。
今は神を見下げて人民が上になっているが、
そうなってから神に助けてくれと申しても、
時が過ぎているから時の神様がお許しなさらんぞ」

「大峠の最中になったらキリキリ舞いして、助けてくれと押し寄せるなれど、
その時では間に合わん。逆立ちしてお詫びに来ても、どうすることもできん。
皆己の心であるからぞ」

厳霊系の神示は厳しい語調だが、
決して恐怖を与えようとしている啓示ではない。

バシャールはこう言っている。

「恐れを信じる人は、自分の人生も恐れに満ちたものになります。
愛と光だけを信じる人は、人生の中で愛と光しか体験しません」

『日月神示』が説いていることも本質的には同じである。

バシャールは、次のようにも言っている。

「すべてはエネルギーなのです。
良い悪いではなくひとつの動的な力として使われるだけです。
あなたの出したものがあなたの受けとるものです。
それがただひとつのカルマ的な法則です。
与えたものを受けとる」

「カルマというのは単に、調整されなくてはいけない動的な力という意味です。
カルマというのは、単にあなたの存在すべてが結合した体験なのです」

「カルマとは、バランスのことです。
自分が捕らわれの身になるというのではなく、
カルマをバランスするということが大切です。
こういうことをしたから、こういう報復が返ってくる
という意味では必ずしもありません」

「自分が体験している真実というものすべては、
自分が創り出しているということに気が付けば、
もうカルマ的な結びつきという考えを信じる必要がないわけです」

要するに、「理解」すればカルマの観念に縛られることはない
ということなのだが、本質論的には以下の動画の通りである。

カルマ・・・
過去または過去世において 自分が行った行為
「後悔」や「自責の念」また「恨み」や「怒り」「恐れ」。。。
そういったカルマが何であったのか その一つ一つを
思い出す必要も 知る必要もありません。
ただただ 手放せばいいのです。
すべてから解放され 自由になるのです。


※”肉体のまま次元上昇”ってここから来てるのかもしれませんね(^^;;

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