人生の中で、時に理不尽な人間関係や耐え難い体験に遭遇します。
浮気、DV、裏切り、侮辱・・・。そういった出来事に向き合う時に、よく耳にする言葉。
「相手を許しましょう。自分もまた不完全な存在なのだから。」
・・・・。
・・・・・。
しかしこの言葉って全ての状況に適用出来るものでしょうか? むしろその言葉に傷つき、許すことが出来ない自分を責めてしまうこともあります。
カルマの関係ということもある
何を置いても責任は自分になるのですが。自分が向上して相手も同じように向上する・・・のならまぁまだ救いはあるのですが自分だけが向上して相手はまだそのままってのが、無きにしも非ずです。
ってことは原因の大きさは相手になるってことですね。じゃないと理屈に合わないです。
決して変わることのない相手を許すとは・・・?何をどうやって?例え受け入れようと思ったって、相手が遠のかない限り嫌悪感しかないのでは?
現実では相手が関与し続けてくる限り感情の回復等到底が出来ない。(離れたら時間と共に傷が回復しますからね)
・・・という疑問なのですが、そういった意味では必要としているのは、許すことではなく、「自分の精神領域を守る」ことである。
国にもよりますがここは日本ですので、様々な法律があります。守れるものがあればそれを利用しよう。
いわば因果応報なので、「こんな扱いは、二度と受け入れない」という自分をもっと大事にする気づきこそが成長の鍵となりますね。
カルマの関係はしばしば濃密で、衝突も多く、強烈な為に深い変容をもたらすので、強く現れる。
許しよりも大事な境界線
ある段階を越えると人は怒りや悲しみを超えて、「無関心」「無感情」になります。これは共感の終わりを意味します。
この状態を、心理学では「情緒的断絶」とも呼びます。
AIによる概要
「情緒的断絶」とは、感情を認識したり表現したりするのが困難な状態を指します。
これは、感情の変化を失った状態ではなく、感情に気づきにくい状態や、感情をうまく言葉にできない状態など、様々な側面があります。
ここでは怒る必要も悲しむ必要も、ましてや許す必要もなくなったってことです。
許すか許さないかは問題ではなく、もうそこに学びがないという事実のほうが重要であり、相手の存在を「学びのきっかけ」として感謝ではなく、区切りとして受け入れること。
ずっと行動もせずただずっと許せない感情のまま過ごせばそりゃそのままなのでしょうが、その関係によって自分が変われたなら、意味を見出せた証拠ですし
「もう自分はあの時の自分じゃない」と言えるならそれは卒業の合図なのでは・・・?となります。
親でも何でも好きになれないものはなれないでしょ
こういう相手に限って何度も何度も「許してほしい。変わる気がないけど」前提で行ってるので、
人格的にも破綻して、会話が成立出来ない相手と一体どう受け入れろと・・・?
ーーーとなるものなのでその人の人生での学びは自分の力を取り戻すことなのかもしれません。
その関係を通じて自分が何に気づき、どう変化したかを受け止めて先に進むこと。
他人はコントロールが出来ないし、相手だけが変われない理由は相手の責任です。相手と完全に共鳴しなくなった証拠なので相手そのものを受け入れる必要はない。
許さない=復讐ではない
必ずしも物理的に仕返しをすることではありません。「自分の人生から排除する」という強い意志の表明であり、相手の影響下にはもういないという独立の証でもあります。
ただ、波動の合わないものと距離を取り、感応をやめ、自分の中に静かな世界を取り戻せばそれでいい。
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