人間は、自然から命を頂いて生きています。これは古代から変わらぬ、生命の根源的な営みです。
アボリジニの祈りと感謝
オーストラリアの先住民アボリジニたちは、
「今日一日、生きるための糧を神に祈る」ことから始まります。
狩りに出たとき、目の前に現れた動物は「偶然」ではなく、「神が与えてくれた恵み」として受け取られます。
彼らは動物の命を奪うのではなく、「授かる」のです。
そしてその命に深く感謝し、祈りを捧げてからいただきます。
縄文人やアイヌの魂
日本の古代の民、縄文人やアイヌ民族もまた、
山・森・川、全ての自然を神とし、共に生きてきました。
彼らは、食物を「糧(かて)」ではなく「神の恵み」として見つめていたのです。
獲った動物の骨や内臓は森に返し、祈りを込めて感謝を捧げます。
それは「頂く」ことの本質、すなわち”命の循環”の理解に他なりません。
ヴィーガンという選択、そしてその視点の限界
近年では、動物性食品を一切摂らない「ヴィーガン」という生き方も広がっています。
その思想には尊敬すべき理念も多くあります。
しかし過激な一部のヴィーガン思想には、ある大切な視点が欠けています。
それは、植物もまた意識ある”命”であるという事実です。
植物は光に向かって成長し、水を求め、仲間の樹木と”通信”しています。
誰もが知っている通り、植物もまた“生きている”存在なのです。
つまり、私たちは動物であれ、植物であれ、常に命あるものを頂いて生きているのです。
命を「奴隷」と呼ばないために
「食べること」は「命を奪うこと」ではありません。
命を“繋ぐ“ことです。
神が人間に与えてくれた大地の恵み、森の恵み、海の恵み。
それらを敬い、感謝し、謙虚にいただくという姿勢。
それがある限り、どんな命も「奴隷」ではなく、「尊い贈り物」になります。
最後に
私たちは、ただ食事をしているのではありません。
命のバトンを受け取って生きています。
「いただきます」
それは、単なるあいさつではなく、命に対する深い感謝と敬意の言葉。
今日の一口が、どうか祈りに満ちたものでありますように。
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