魂だけでは人特有の感情がないので、争いは起こりません。しかしこの星で生きていくには肉体あってこそなので「人間」として生きなきゃなりません。
そして全て同じ価値観というわけではなく、生い立ち・環境・他者への影響で人格形成が出来て相反する者がいたら反発を起こすのが人間というものです。
よくスピリチュアル的に「批判してはならない」「赦そう」と語ることが多いのですが確かにそうなのですが、そこに至るまでになるのはやはり人間のエゴイストがあるからこそ成り立つのだと思います。
私は集団行動が苦手です。同調圧力が苦手です。一度冷めたら元に戻ることがない程の頑固な性質です。
それでは「愛」とは何でしょうか。全て赦すのが愛?
いえ、愛も所詮人を選抜します。【ノアの箱舟】というものをご存じでしょうか?
神も人を選抜をするーー。
「赦してはいけない」と思うことがあるならばそれを受け入れるのも愛だと思います。私の主観では。
色んな人間を見て。色んな人間と接して。どういう人間といればいいのか。駄目なのか。
そうやって体験して生きていくのです。
私の中では「好きだから」って、「繋がりがあるから」って。その好きな人間を追いかけまわし勝手に誰かと話してるとこを見て”その場面を見た“というアピールをしてくるのが愛でしょうか?
「やめて」と言ってるのに、構ってくるのが嬉しくて止めてくれないことが愛なのでしょうか?
直接話し合いを避けるのに、それを無視して思い通りにさせようとして別のキャラを扮して迫ってくることが愛なんでしょうか?
正論をぶつけられたら影でポチポチ卑猥な画像見せつけることを、受け入れないと止めてくれないような人間に”愛さなきゃいけない”という宇宙のエゴとも呼べるルールは果たして必要なのでしょうか。
例え記憶がないだけで前世でそう決めたのかもしれませんが、やはり私は受け入れたくないのです。そしてそんな人間も、愛する価値も愛される価値もないんです。
私は今まで特別悪いことをしていないと自負してるとこはあります。その気持ちは変わりません。
変えようとも思いません。何か気づくような出来事を見舞われない限りは。
リアルは誰からも相手されないくせに表では真逆なことを演じて近づいたり、人の真似事をして気を引かせる素振りをしたり、他者を利用して行う限りは絶対にこちらから愛すことはあり得ません。何度でも出くわしたら拒否しますし、否定をします。それが私なりの正義と、周りを助けることでもあり、自分の幸せだからです。
どうかその行為を愛だと勘違いしないでください。不器用だからって言い訳しないでください。人を追いつめたその行動は必ず自分に返ってきますし、誰からも構ってもらうなんてありえません。
他人から認められることを目的にしてしまっては、自分の人生を歩んでいないとの同じです。どんなに繋がりがあろうとも肉体は別なのです。同じ人生ではないのです。
どうか自分の愚かさに気づいてくださいね。
人は肉体あってこそ、学ぶ生き物です。
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