男性フェミニストを語るなら、まず「自分自身」を整えよ

哲学的な

表面的な言葉ではなく、本質的な覚悟が求められている

近年「男性フェミニスト」を名乗る人が増えてきました。

フェミニストとは、男性らしさ・女性らしさを始めとする価値観の押し付けを疑いの目で見て、価値観の多様性を認める人を指します。
更には自分の価値観を押し付けることなく相手の価値観を受け入れられる人のことです。

SNSや発信の場では耳触りのいい言葉で「女性の味方」を装う男性も多く見られます。しかしその言葉に魂は宿っているのか?そこに深い疑念を抱いています。

何故なら男が本当の意味で女の気持ちを察しれるなんて稀だからです。

フェミニズムを趣味の隠れ蓑にする人たち

中には「女性の気持ちを理解している」と称して、女性下着を趣味として身につける行為をフェミニズム的だと語る人もいます。(堂々と載せるその想像力の無さの時点でアウトだけど)

しかしこれには明確な一線があります。それが性的興奮や快楽を伴う行為であるならばそれは共感ではなく、女性性のコスプレであり消費行為である。

フェミニズムとは本来、女性が歴史的に受けてきた抑圧からの解放運動であり個人の性的嗜好を肯定する運動ではありません。

こうした混同は、真摯にフェミニズムと向き合ってきた人々の努力を踏みにじるものです。

加害者を「見て見ぬふり」する構造的偽善

もう一点、男性フェミニストを語る上で避けて通れないのが性犯罪や加害構造への向き合い方です。

「差別だ」と言って特定の属性を批判から外す風潮があります。

例えば、在日コリアンや移民の中に性犯罪加害者がいた場合それを取り上げることすら差別と批判されることがあります。

だがそれは被害者を無視し、加害者を守るという二重の暴力です。

国籍や立場に関係なく性加害は性加害です。

都合よく視点をずらし現実の加害構造に向き合わないのであればそれは「フェミニズム」ではなく、ただのポーズです。

フェミニストを語る前に問われる自己認識

フェミニズムを本気で語るならば、まず必要なのは自己の内面と欲望への誠実な眼差しです。

本当に女性の尊厳を守りたいのなら、「自分の趣味をどう見られたいか」ではなく、「この発言・行動が誰かを傷つけていないか」を問うべきです。

男性である自分が「どこまで社会的に優位な立場にいるのか」?
「どこまで他者の痛みに無自覚だったか」?
「味方のふりをすることで満足していないか」?
「行き過ぎた正義を振りかざしてないか」?
「自分の中にある加害性を悪人にぶつけることで解消していないか」?

他者(特に女性)の気持ちや現実的な圧力を本当に想像を出来ているか?

それを徹底的に問い直さなければ、真のフェミニストにはなれません。真正面から向き合えない人間が、「女性の味方」等と名乗る資格はありません。

整えるべきは自分自身

真にフェミニズムを語るなら、

自分自身の性的欲望や加害性を直視し、誰であっても加害者は加害者として批判し、立場を利用して弱者を消費する構造から一歩抜け出す覚悟が必要です。

整えるべきは社会の前に、自分自身。

口先だけの味方ごっこでは、真の連帯は生まれません。

つまり「フェミニスト」を名乗るのであれば、感性や想像力を磨くこと

そして常に「自分の中にある偏見や欲望」を内省し続ける態度が必要なのです。

実際在日コリアンによる犯罪はとても多い

性に対する感覚は日本人のそれとは異なり女性を道具として扱うことに罪の意識を持たない国民性なのだと認識すべきです。朝鮮人の女性蔑視が根底にあるのです。

※刑務所で服役している人の大半は外国人が占めています。

なので男性フェミだのなんだのに頼って人任せにするのではなく、一人一人微力ながら声を上げて行きましょう。

フェミニズムとは「全ての人が暴力や抑圧から解放される社会を目指す運動」でありその理念に沿うならば、性犯罪や差別的加害をした者が誰であれ厳しく否定するのが筋です。

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