一つ記事を書くと嫌でも時間がかかる。写真は載せたり文字太くするだけでも1時間以上はかかる時ある。でも沢山書きたいことはあるのだ。
だったらSNSで感情と思考を垂れ流した方が楽とも言える。
しかし皆価値観は一緒ではないし(一緒だったら北朝鮮とおんなじや)、当然自分の相反した感情と思考の垂れ流しが嫌でも目に入る。そこで反撃をしたら目にした周りに申し訳ないからやはりブログって大事だなと思うこの頃。
友達ってなんだろうか?
多分辛口ばかり言ってる人も、自分の意見に同調してくれたら嬉しいのは隠せないはずだ。その人を否定せず受け入れるでしょう。
よくある集団行動でも自分の味方は受け入れて反対意見は敵とみなしひたすら仲間と共に攻撃するのはこの社会の特徴なのだが、さすがに自分と同じ意見だからって全員が同じ価値観なわけがない。
慣れ合いが好きな人からしてみればこうして一人「この世界はおかしい」とか言ってる奴に対して当然「いや、お前がおかしいわw」ってなるのは仕方ないことだがじゃあ友達ってどういうものなの?と言えば疑問を感じる。
友達というのは恋人も夫婦も仕事の人間関係でも多少は妥協するのは同じなのだがきっと恩なのだろう。
前世から付き合いのあるソウルメイト同士が逢えばすぐ仲良しになれる。
利害一致や協力、敵から味方、それには何か心に通じた経験がその同士にはあったから多少の問題ある行動も目をつぶれるのだと思う。
さすがに追い詰めるようなやり方をされたら縁は切れるが。
同性同士というのは異性と違って・・・いや、違うな。お互い性指向が一致しないなら特に恋愛のもつれはないし、話しやすい分フレンドリーになれる。
そこで会話していてどうしても相手に対して違和感が拭えないのなら友達ではないのだろう。ただの付き合いのある友人、という肩書き。
それらを踏まえて人は波長の合う人間関係を築くのだ。
大人になってそういう対象者がいないってことは信頼出来る相手が今まで作れなかったか、前世で何かしらそういう孤立になるような原因を作ったかどれかではないだろうか。(記憶がないから困る)
しかし友達というのは私の個人的な解釈だが別に飲みに行く・遊ぶことが友達ではないと思うのだ。(いや、会うのも大事だよという前提で)
SNS・ブログ等で自分の言葉を目にしてちょっと共感して何かしら影響をもたらしたのならそれは繋がりが出来たようなもの。
お客さんとの関係も言えると思う。
恩があれば、それだけで人は救えるものなのだ。
寂しさがない人などいない。どんなに完璧主義者な人間がいても内心はどこか必ず寂しさを抱えてる。
自分をわかってくれる人が欲しいのだ。
そんな風に抱えながら、依存しないように、そうやって自分なりの人生を歩んでいる。
だから、そういう恩を仇で返してしまう人間は孤立しても仕方がないし、今の現状心を開く人間がいないのならそれは間違いなく自分自身の問題なのである。
わかっていないだけで。
友達がいなくてもいいって言葉は、誰かを傷つけているかいないかで全然違う。
勿論人間幼い頃は誰かに迷惑かけながらそうやって成長していくものだが、私の「友達がいなくてもいい」という言葉は「付かず離れず、かといって押し付けない、相手の幸せを願う」ような関係があれば友達とは呼ばなくともいいってことだ。
友達という言葉はある意味呪いだ。「友達100人作ろう」なんて歌、何で作ったんだ。もう少し他にいい言葉があったはずだ。あれで「一人でいるやつはおかしい」って偏見を生み出すんだぞ。
そうじゃなく付き合い方の問題なだけであって、
「誰もわかってくれない」からの「友達はいない」だと、一生人を信用しないことになるし
この世の中はどうしても一人では生きていけない。だから協力し合う(同調圧力とか自己犠牲は違うよ)のが人類の学びなのである。
それを踏まえて「誰も自分をわかってくれない」は大きな勘違いなのだ。
誰よりも自分を愛してるのは自分の魂だ。
自分を救えるのは自分だけだ。だからたまに原点を振り返ろう。何でもかんでも「あいつらはおかしい。自分が正しい」論はどんどん自分の首を絞めてしまうことになるよ。
孤立して誰からも手を差し伸べない現状にそれでいいってのなら、それでいいんだけどね。本当にそれでいいのなら。
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