「全ては幻」、その教えと現代科学との一致を説明します。
般若心経とは?ただの「お経」ではない
仏教の中でも特に知られている経典「般若心経(はんにゃしんぎょう)」。般若心経はブッダが語ったそのままの言葉です。( 『般若心経』はブッダ本人(釈迦)が作ったものではありません。)
ブッダは長い間、苦行を繰り返しましたが悟りを得ることは出来ませんでした。そして、苦行をやめ菩提樹の下で初めてゆったりと休みました。
その時に、初めてこの世界の真理を悟ったのです。これまでの苦行は必要ではなく、人はそのままで、ありのままで完璧だったのだと。
そべては空(実体がない)である。
「諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」
これが真理です。
しかし多くの人が「意味もわからずに唱えるだけ」にとどまっています。
本当にもったいない話です。
何故なら、このお経は”物質世界の真理“や”自我の正体“を、2500年以上も前に言い当てていた哲学の結晶だからです。
観音さまの深い気づき。「実体は、ない」
般若心経では、観音菩薩が「全てのものに実体はない」と語ります。
それは、私たちが信じて疑わない「目」「耳」「心」「世界」ですら、存在しているようで実体がないというもの。
「五蘊(ごうん)=体・感覚・感情・イメージ・思考」
→全て”私”を構成しているようで、”私”という実体はどこにもない。
つまり、「私は◯◯だ」というアイデンティティも、「これが真実だ」という価値観も、全部幻のようなもの。
これこそが、苦しみからの解放=悟りへの第一歩だと説いています。
「色即是空・空即是色」とは何か?
般若心経の中でも有名なこのフレーズ。
「物質(色)は空(実体のないもの)であり、
その空(実体のないもの)こそが物質(色)なのだ」
この一文に全てが詰まっています。
一見パラドックスですが、「本質を掴んだ一撃」なのです。
現代の量子物理学でも、
・原子の99.9999%は”空間”
・観測によって物質の性質が変わる(※二重スリット実験等)
と語られているように、「実体があるように見えるが、そこには本当は何もない」のです。
仏教と量子力学の共通点
例えば極限まで真空状態にした空間で、人間の意識が物質に影響を与えたという研究報告があります。
何もないはずの空間で、
・光が曲がる
・物質が出現する
・”意思“によって変化が起こる
これは、まさに仏教で言われている「空」や「波動」の世界と一致しているのではないでしょうか。
仏教は「唱えるだけ」でいいのか?
残念ながら日本の多くの仏教寺院では「般若心経はただ唱えるもの」として扱われがちです。
けれど、もしこのお経の本質を深く学ぶことができれば、
自分への執着から解放され
他者との比較や苦しみが減り
この世界の捉え方がまったく変わる
ーーーそんな体験ができるはずです。
真言の意味。「ガテー ガテー…」とは?
般若心経の終わりには、不思議な言葉が唱えられます。
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじー そわかー)
意味はこうです。
「行け、行け、彼岸へ行け、悟りの世界へ完全に到達せよ、幸あれ」
これは言葉の魔力=真言(マントラ)であり、脳や魂の波動を変えるものとも考えられています。
何故日本の仏教は”意味”を教えないのか?
日本の多くの寺では、「般若心経」をはじめとするお経の”意味“を一般の信者には教えようとしません。
何故でしょうか?
その理由はシンプルです。
「意味を知られると困るから」
つまり庶民が”本当の真理“に目覚めてしまうと、僧侶という階層の”支配構造“が崩れてしまうからです。
仏教に限らず、あらゆる宗教には「権威構造」があることが多いです。
「ありがたい言葉だ」「難しいから僧侶に任せよう」と思ってもらったほうが、コントロールしやすい。
だからこそ、”真理を伝える“ことよりも、”形式を守らせる“ことに意識が向いてしまうのです。
「何も存在しない」の中に、たった一つ「存在するもの」
般若心経では、「この世のあらゆるものは実体がない」と説かれます。
体も幻
感情も幻
時間も、記憶も、全て幻影にすぎない
しかし瞑想をしている人なら気づくことがあります。
「何もない世界の中で、”唯一存在しているもの”がある」
それは、魂=意識そのものです。
「わたし」とは、肉体ではなく”意識そのもの”
仏教では「五蘊」(体・感覚・思考等)を”わたし”と錯覚していることが苦しみの根源だと説きます。
けれど、魂(意識)だけは消えない。
全ての変化を”観ている”存在。
それが本当の「わたし」なのです。
「南無阿弥陀仏」の本当の意味
仏教でよく唱えられる「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」。
この中にも、深い真理が隠されています。
・南無(なむ):帰依する、全託するという意味
・阿弥陀仏:光と命の無限の存在(=阿弥陀如来)
つまり、「私は、無限の光と命に自分をゆだねます」という宣言。
それは、エゴ(自我)を手放し、魂の本質へと立ち返る祈りでもあるのです。
「宗教」から「真理」へ
仏教は元々、哲学であり、実践であり、自己超越の方法でした。
それがいつしか形式化し、階層化し、
“知識を独占する僧侶“と”ただ信じる庶民“という構造が出来てしまったのです。
しかし今はもう誰でも智慧に触れられる時代です。
自分が「知ろう」と思った瞬間から、
般若心経は”ただのお経“ではなく、真理に辿り着く鍵となります。
結論。「空(くう)」を知り、「魂」を生きよ
般若心経が説く「空」とは、全てが”無“であるということではありません。
それは、無限の可能性としての”空”=ゼロポイントフィールドでもあります。
そして私たちはその空の中にあっても、確かに何かを”観ている”存在がいる。
それが「わたし=魂」です。
私たちが苦しむ原因のほとんどは、
過去にとらわれ
他人と比べ
自分という”固定された存在”に執着すること
般若心経が伝える真理はこうです。
「そもそも”私”なんていない。あると思っているものは、すべて空である。」
「知る」ことで自由になり、「悟る」ことで解放される。これが、般若心経の教えが今も響く理由なのです。
魔を払う時の般若心経の最後の一文です。↓
「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
(ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーじそわかー はんにゃーしんぎょう)」
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更なる般若心経の本当の意味です。
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