批評家とはどうあるべきか -「生理的な厳密さ」、内発的パトス、知性と倫理の関係についての試論-

意識の深層
試論

批評家とはどうあるべきか

「生理的な厳密さ」、内発的パトス、知性と倫理の関係についての試論

0. 前提の確認――この語をどう扱うか

まず率直に言っておく必要がある。「生理的な厳密さ」という語そのものは、哲学・批評理論・美学のいずれの学術的語彙にも存在しない。これは着地点ではなく出発点として扱うべき、ユーザー自身の造語である。だからこそ最初にすべきことは、この語に既存の概念を安易に代入して「答え合わせ」をすることではなく、この語が指し示そうとしている経験と、既存の理論的語彙との間にあるずれそのものを検討することだ。

ずれは主に二つある。第一に、この語は「感性」「直感」「身体感覚」とは微妙に違う位置を占めている。感性や直感は多くの場合、対象を捉える能力として語られる。だが「生理的な厳密さ」が指しているのは能力ではなく、態度、より正確には自分に対する誠実さの基準である。「よく見える」ことではなく、「見えてしまったものを、説明出来ないからといって手放さない」という構えのことだ。

第二に、この語は「論理的な厳密さ」と対立概念として置かれているように見えて、実際には同じ言葉――厳密さ――を共有している。ユーザーの仮説が主張しているのは、感覚を論理より優先せよということではなく、厳密さという価値そのものが、複数の次元を持つということだ。論理的厳密さは「命題間の整合性」に対する厳密さであり、ここで言われている厳密さは「自分の経験に対する忠実さ」に対する厳密さである。両者は競合するのではなく、しばしば時間差で現れる。違和感が先にあり、論理はそれを事後的に、あるいは長い時間をかけて追いかける。

§1

「生理的な厳密さ」とは何か――概念の批判的検討

1-1 感性・直感・身体感覚との違い

現象学の伝統は、この区別を最も精緻に扱って来た領域の一つである。ここで参照に値するのが、文学理論家リタ・フェルスキが『文学の使用法』(Uses of Literature, 2008)およびその後の『批評の限界』(The Limits of Critique, 2015)、『フックト』(Hooked, 2020)の三部作で展開した議論である。フェルスキは、当時の文学研究の標準であった「徴候的読解」――テキストの表面の下に隠された抑圧やイデオロギーを暴くことを批評の使命とする態度――に対して、読者が対象に対して抱く「愛着」(attachment)を、分析や批判と対立するものではなく、批評的関与そのものの構成要素として捉え直した。彼女は、批評とは「分析と愛着」「批評と愛」を混ぜ合わせることが出来る営みだと述べている。

この視点から見ると、「生理的な厳密さ」が指しているものは、感性や直感という能力の話ではなく、対象への愛着や違和感を、批評の妥当な出発点として認めるかどうかという、方法論的・倫理的な選択の話だとわかる。一方で、フェルスキ自身の議論に対しては、「愛着」を強調するあまり批評が本来持つべき否定性・批判性を弱めてしまうのではないかという批判が向けられて来た。この緊張は、後述する第11章の反論でも中心的な論点となる。

1-2 論理的厳密さとは別の次元なのか

ここで有効なのが、テオドール・アドルノの「否定弁証法」(1966)の枠組みである。アドルノは、ヘーゲル的な弁証法が最終的に矛盾を統合し「同一性」へと回収してしまうことを批判し、対象が概念によって汲み尽くされずに残す「非同一的なもの」(das Nichtidentische)を、思考が抑圧せずに保持し続けることを要求した。真に厳密な思考とは、矛盾を解消せず、対象が概念からはみ出す部分を消さずに保持する思考のことだ。

「既存の論理に合わせることで現実を歪めるくらいなら、論理の方を作り直す」

これは、この仮説が主張する態度と、驚くほど近い構造を持っている。アドルノにおいて、これは感情論への逃避ではなく、むしろより高度な、自己反省的な論理性として提示される。つまり「論理的厳密さ」と「生理的厳密さ」は対立する二つの能力ではなく、同一性思考に安住することを拒むという一点で連続している可能性がある。

1-3 感覚を信頼することと感情論に陥ることの違い

ここが最も危うい分岐点である。区別の基準として提案出来るのは次の点だ。感情論は、感覚を説明の代わりに使う(「不快だから悪い」で思考を止める)。「生理的な厳密さ」が理想として掲げているのは、感覚を探究の出発点として使うことである(「不快だが、この不快さが何に由来するのかをまだ言葉に出来ていない。だから安易な一般論に逃げずに留まる」)。

アイリス・マードックの倫理学は、この区別に手掛かりを与える。マードックは『善の至高性』(The Sovereignty of Good, 1970)において、道徳的行為の核心を「選択」ではなく「注意」(attention)に置いた。人は選択の瞬間に道徳的であるのではなく、日々、利己的な幻想を排して現実を正確に見ようとする持続的な努力――「公正で愛情深い注意」――の中で道徳的になる。マードックにとって利己性の最大の敵は、まさに「自分に都合よく世界を単純化してしまう想像力」である。

この枠組みを借りれば、感情論とは「自分の感情に忠実であること」を装いながら、実は自分に都合の良い単純化(=マードックの言う「幻想」)へと逃げ込むことである。逆に「生理的な厳密さ」が目指すべきものは、対象を単純化したいという自分自身の欲望そのものを警戒しながら、それでもなお生じる違和感には嘘をつかない、という二重の構えである。

1-4 「違和感を無視しないこと」は知的態度になり得るか

サラ・アーメッドのLiving a Feminist Life(2017)は、この問いに肯定的な答えを与える一つの事例である。アーメッドは、フェミニズムは「センセーショナル」なものとして出発すると論じる。すなわち、まず身体的・感情的な反応があり、そこから理論が事後的に編まれていく。彼女が導入する「フェミニスト・キルジョイ」や「ウィルフル(頑固な)主体」という概念は、社会的に「わがまま」「大げさ」と名指される感覚こそが、実は構造的暴力を最初に感知するセンサーである、という主張を含んでいる。

重要なのは、アーメッドがこれを単なる「気分」として擁護しているのではなく、誰の違和感が「正当な知」として承認され、誰の違和感が「感情的すぎる」として却下されるかという構造そのものが、権力配分の問題である、と指摘している点だ。「違和感を無視しないこと」を知的態度として成立させるには、その違和感が本当に対象由来のものか、それとも自分の防衛反応にすぎないのかを、事後的に検証し続ける作業が不可欠になる。この検証作業を怠った「違和感の無条件な信頼」は、知的態度ではなく単なる自己正当化に転落する。

1-5 言語化以前の経験を批評の根拠に出来るか

ここでの一つの答えは、「根拠」と「出発点」を混同しないことだ。言語化以前の経験は、それ自体では他者に対する論証にはならない。しかし、探究を駆動する動機、あるいは既存の理論の不十分さを検知する感度としては、十分に正当な役割を果たしうる。フェルスキが強調するように、批評とは対象が「押し返して来る」(text “bites back”)経験を含む営みであり、この押し返しの感触こそが、言語化以前の層に属する。批評家の仕事は、この感触を放棄することではなく、それに応答出来る言葉を――時間をかけて――発見することにある。

1-6 「自分の感覚に嘘をつかない」ことへの自己欺瞞のリスク

しかしここに、この仮説自体への最も鋭い反論が潜んでいる。「自分の感覚に嘘をつかない」という態度は、自己欺瞞に対する免罪符にもなりうる。何故なら、人は自分の欲望や偏見でさえ「これが自分の正直な感覚だ」と主張することが出来てしまうからだ。この問題は第5章・第11章で徹底的に検討する。ここでは一点だけ先取りしておく。「自分に嘘をつかない」ことの検証可能性は、それが時間の中でどう変化し、他者との対話にどう開かれているかによってしか担保されない。一回限りの「これが私の正直な感覚だ」という宣言は、検証不可能である以上、厳密さの基準にはなりえない。

§2

内発的パトスと対外的エートス

古典修辞学において、パトス(感情への訴え)とエートス(語り手の信頼性・人格)は、ロゴス(論理)と並ぶ説得の三要素としてアリストテレスが定式化したものである。ここでの用法はこれを転用し、批評家自身の動機の由来を指すものとして再定義されている。

内発的パトスとエートスの区別を単純な善悪二元論にしない為に有効なのは、これを動機の起点の問題ではなく、言葉が最終的にどちらに従属するかの問題として捉え直すことだ。批評家が対象への強い違和感から出発しても、その違和感を説明する過程で、いつの間にか「知識人としてこう言うべきだ」という社会的期待に言葉を明け渡してしまうことはある。逆に、社会的な立場から出発した批評であっても、対象と格闘するうちに、当初の立場を裏切るような発見に至ることもある。

つまり実際の批評の仕事において、パトスとエートスは起点としてではなく、執筆の全過程を通じて絶えず綱引きを続ける二つの重力として存在する。「成熟した批評家」の条件の一つは、この綱引きの存在そのものを意識出来ることであり、パトスだけで純粋であることでも、エートスを完全に排除することでもない(そもそも完全な排除は不可能である――この点は第11章のアーメッドへの再言及で扱う)。

§3

「曖昧さ」と「粗雑さ」は同じなのか

これは本論全体の中で最も検証しやすく、同時に最も濫用されやすい論点である。

3-1 二つの曖昧さ

外形的には同じ「支離滅裂に見える文章」でも、次の二つは区別出来る。

  • 思考の粗雑さによる曖昧さ――対象を十分に検討しないまま、印象や思い付きを整理せずに並べた結果としての曖昧さ。時間をかけて検討しても、矛盾は解消されるどころか、単に「詰めが甘かった」ことが明らかになるだけである。
  • 対象への忠実さによる曖昧さ――対象が実際に複数の相矛盾する側面を持っており、それを単一の枠組みに回収することを書き手が拒んだ結果としての曖昧さ。時間をかけて検討すると、矛盾はむしろ対象の構造そのものの精密な記述として立ち現れて来る。

この区別の理論的支柱として最も強力なのがアドルノの否定弁証法である。対象が概念の網の目からこぼれ落ちる部分――非同一的なもの――を、無理やり整合的な物語に押し込めることこそが、思考の「暴力」である。したがって、文章が矛盾を含んだまま終わることは、失敗ではなく、対象の複雑さに対する応答でありうる。

3-2 区別の実際的な基準

とはいえ、「これは対象の複雑さの反映であって粗雑さではない」という主張は、それ自体が粗雑さを覆い隠す常套句として濫用される危険を常に持つ。区別の為の実際的な基準をいくつか提案出来る。

  • 反復可能性:粗雑な曖昧さは、書き直す度に違う矛盾を生む(一貫した構造がない)。忠実さによる曖昧さは、書き直しても同じ緊張関係が形を変えて再現される(構造がある)。
  • 他者による検証への態度:粗雑さは、指摘されると防御的になり説明を放棄する。忠実さによる曖昧さは、指摘に応じてより精緻な言葉を探そうとする――つまり、矛盾を保持することと、矛盾の検討を拒否することは別物である。
  • 対象への集中度:粗雑な曖昧さは書き手自身の状態(不安、怒り、承認欲求)に焦点が移りやすい。忠実さによる曖昧さは、あくまで対象の記述に踏み留まろうとする。

3-3 逆の命題――整った文章は深い批評とは限らない

この命題を支持する事例として、フェルスキが批判した「徴候的読解」の様式が挙げられる。徴候的読解は、あらかじめ用意された理論的枠組み(イデオロギー批判、精神分析等)にテキストを整然と当てはめていく手法であり、しばしば非常に論理的で説得力のある文章を生む。しかしフェルスキは、この様式がテキストを「あらかじめ知っていた結論の確認」の道具として扱ってしまい、テキストが批評家に「押し返して来る」余地を奪ってしまうと批判した。整合性の高い文章は、対象を裏切っていないことの証明にはならない。むしろ、あまりに整い過ぎた説明は、対象がその説明に本当に収まりきったのか、それとも書き手が都合よく刈り込んだのかを、見えなくしてしまう危険がある。

§4

知性と倫理的成熟は同じなのか

これは本論考全体の理論的な核であり、心理学的にも哲学的にも別々の伝統で裏付けられる。

4-1 能力としての区別

挙げられた各能力――言葉を精密に扱う能力、複雑な理論を理解する能力、他者の心理を分析する能力、自分の欲望を理解する能力、自分の権力性を認識する能力、自分の加害可能性を認識する能力、他者の主体性を尊重する能力、自分自身の認識を疑う能力――は、少なくとも三つの異なる階層に分けられる。

  • 分析的知性(言葉の精密さ、理論理解、他者心理の分析)は、対象を捉え、操作する能力である。
  • 自己認識(自分の欲望の理解、自分の権力性・加害可能性の認識)は、分析の矛先を自分自身に向け続ける能力であり、分析的知性とは独立に発達しうる。
  • 倫理的能力(他者の主体性の尊重、自分の認識を疑う能力)は、自己認識を更に一歩進めて、自分の認識の限界を前提に他者との関係を作り直す能力である。

分析的知性が高いことは、自己認識の高さを保証しない。何故なら、分析的知性は対象を外部化することで機能する能力であり、その矛先を自分自身の内部に向けることには、それとは別の努力(マードックの言う「注意」)が要求されるからである。更に、自己認識が高いことすら、倫理的能力の高さを保証しない。自分の欲望を正確に理解している人が、その理解を他者の尊重にではなく、自己正当化に用いることは十分にありうる。これが次章の主題である。

4-2 逆説のメカニズム

「他人を深く分析出来る人が、自分自身については粗雑である」という逆説は、心理学において特殊な現象ではない。分析的知性は、対象との間に距離を作ることで機能する。しかし自分自身を対象化する際、この距離は同時に防衛としても機能しうる――つまり、自分についての精緻な理論を持つこと自体が、自分の行動を直視することを回避する手段になりうる。これは次章で詳述する「知性による自己免罪」と表裏一体である。

§5

「知性による自己免罪」

5-1 モラル・ディスエンゲージメントの理論

心理学者アルバート・バンデューラが定式化した「モラル・ディスエンゲージメント(道徳的離脱)」の理論は、この仮説に強力な実証的裏付けを与える。バンデューラは、人は自分の価値観に反する有害な行為を行った後も、良心の呵責を感じずに自己像を保つ為に、道徳的自己制裁を選択的に「切り離す」ことが出来ると論じた。彼が挙げる主要なメカニズムには、道徳的正当化(有害な行為をより高次の目的への奉仕として意味付け直す)、婉曲的なラベリング(行為の呼び方を変えて害を見えなくする)、有利な比較(もっと悪い他者と比べることで自分の行為を相対的に軽く見せる)、責任の転嫁・拡散、結果の歪曲・矮小化、被害者の非人間化、被害者への責任転嫁等がある。

決定的に重要なのは、バンデューラの理論において、この道徳的離脱は知的に洗練された人ほど、より精緻に行うことが出来るという点である。道徳的正当化や婉曲的なラベリングは、言語的・理論的な巧みさを要求する作業であり、単純な否認よりもむしろ高度な認知能力を必要とする。つまり、「自分の行為を複雑に説明出来る能力」は、道徳的離脱の防止装置ではなく、道徳的離脱を洗練させる道具にもなりうる

5-2 欲望を理解すること・正当化すること・批判することの違い

この三つは連続した過程に見えて、実際には分岐点を持つ。理解とは、欲望の起源や構造を、評価を保留しながら記述する作業である。正当化とは、その理解を用いて、欲望に基づく行動を道徳的に許容可能なものへと変換する作業である。批判とは、理解した上で、なおその欲望に従うことが他者にもたらす結果を、欲望の側からではなく、影響を受ける側の視点から評価し直す作業である。

理解は正当化にも批判にも転用可能な、いわば中立的な能力である。したがって、「私は自分の欲望を深く理解している」という事実は、その人が正当化ではなく批判の方向にその理解を用いているという保証には、まったくならない。

5-3 説明出来ることと責任を取れることの違い

「自分の行動について複雑な説明が出来る」ことと「自分の行動に対して責任を取れる」ことが別問題である理由は、説明が言語行為であるのに対し、責任を取ることが行動の変化とその持続を要求する点にある。説明は、その場で完結し、聞き手を説得すれば目的を達成したことになる。しかし責任は、説明の巧みさとは独立に、時間をかけて行動が変わったかどうかによってしか検証出来ない。この非対称性は、次の第9章で扱う問題に直結する。ポール・ド・マンをめぐる事例は、この非対称性を極めて鋭く例証している(第8章参照)。

§6

他者を「読む」ことと、他者を尊重すること

批評とは本質的に他者(作品・作者・社会)を解釈する行為である。しかし解釈という行為は、同時に他者から「自分自身について語る権利」を奪う可能性を内在させている。

この緊張を最も明晰に定式化したのは、ガヤトリ・スピヴァクの「サバルタンは語ることが出来るか」(1988)である。スピヴァクは、代表(representation)には二つの異なる意味――政治的な「代弁」(vertreten)と、言説的な「再現前化」(darstellen)――があることを指摘し、この二つを混同したまま「抑圧された者たちは自分自身で語り、行動し、知ることが出来る」と素朴に主張する知識人(彼女はフーコーとドゥルーズの対話を例に挙げる)を批判した。西洋の知識人は、自分が対象を「代弁」していることに無自覚なまま、対象を透明な存在として扱ってしまう。スピヴァクの結論――サバルタンは(この構造の中では)語ることが出来ない――は、代弁を放棄すればよいという単純な解決策を拒否する点で重要である。彼女は、代弁を完全に避けることは不可能であり、知識人がすべきことは、自らの代弁行為の政治性を常に自覚し続けることだと論じた。

この枠組みを批評一般に敷衍すると、「あなたは本当はこういう人間だ」と対象を解釈する行為は、解釈を放棄することによってではなく、解釈が権力行為であることを自覚し続けることによってしか、他者の主体性との緊張を和らげられない。解釈をやめることは、批評という営みそのものの放棄を意味する為、選択肢にならない。問題は解釈するか否かではなく、解釈が対象を「所有」する行為に転じていないかを、批評家がどれだけ自己監視出来るかにある。

§7

批評家は自分自身を批評出来るのか

「何故私はこの作品をこう読んでいるのか」を問うことは、単なる自己言及的なポーズではない。それは、批評という営みが不可避的に持つ視点の非透明性――批評家は決して「どこでもない場所」から対象を見ている訳ではない、という事実――を、方法論の内部に組み込む作業である。

サラ・アーメッドの議論は、ここでも有効な補助線になる。彼女が導入する「フェミニスト・スナップ」(feminist snap)という概念は、限界まで抑え込まれて来た違和感が、ある瞬間に「もう我慢出来ない」という形で噴き出す経験を指す。この概念の重要な点は、それが単なる感情の爆発ではなく、それまで見えていなかった構造が初めて見える瞬間として理論化されていることだ。この観点に立てば、「私の違和感は本当に対象から生じているのか」という自己批評的な問いは、違和感そのものを疑って手放す為のものではない。むしろ、その違和感が構造的な何かを捉えている可能性を、より正確に言語化する為の問いである。

この段階に至って初めて、批評は「対象について語る」行為から、「対象について語っている自分について、対象を裏切らない程度の正確さで語る」行為へと深化する。これが「成熟した批評家」概念への橋渡しになる。

§8

具体的な批評家・思想家の比較

以下、複数分野から、「自分自身の認識や立場をどの程度批評対象に出来ていたか」という観点で人物を選ぶ。事実確認と解釈は明確に分けて記述する。

8-1|自己修正を行った例――スーザン・ソンタグ

ソンタグは、1977年の『写真論』(On Photography)において、写真イメージへの過剰な接触が共感を摩滅させ、道徳的感受性を「萎縮させる」と論じた。ところが25年後の『他者の苦痛へのまなざし』(Regarding the Pain of Others, 2003)において、彼女はこの主張を明確に再検討し、単純に撤回はしないものの、写真が必ず感覚を麻痺させるという結論は性急すぎたと認めた。両者を比較した批評家たちは、彼女の作品全体を「長い自己撤回」(a long palinode)と評したこともある。事実として重要なのは、ソンタグが後年の著作で明示的に過去の主張を再検討したという点であり、これは公表された著作間の比較によって検証可能な、自己修正の事例である。

8-2|自己免罪が疑われた例――ポール・ド・マン

イェール学派を代表する脱構築批評家ポール・ド・マンは、1983年の死後4年経った1987年、ベルギー時代(占領下)に親ナチス的な新聞に寄稿し、反ユダヤ主義的な記事を書いていたことが発見された。これは事実として広く報道・検証された歴史的経緯である(1987年12月、ニューヨーク・タイムズが一面で報道)。彼はその後の学者としての経歴で、この過去を一度も公に語らなかった。批判者は、ド・マンの後年の理論――あらゆるテキストの意味はそれ自体の裏返しを含むという主張――が、結果として自分の過去についての沈黙を正当化する道具として機能した、と論じた。擁護者は、ド・マン自身の後年のテクスト(例えば「告白(言い訳)」(“Excuses (Confessions)”)と題する論考)における「告白は決して完全な自己開示になりえない」という議論こそが、彼なりの間接的な過去との対峙だったと主張する。いずれにせよ、この事例は、「自分の過ちを説明する高度な理論的道具を持つこと」と「その過ちに正面から向き合うこと」が、外形的にどれほど区別しにくいかを示す、極めて示唆的な事例である。

8-3|対話によって思想を修正した例――アイリス・マードック

マードックは、当時の主流であった分析哲学(特にR・M・ヘアの規範主義的倫理学)の内在的な弱点を、同僚哲学者スチュアート・ハンプシャーとの応答関係の中で発見し、独自の「注意」概念に基づく道徳実在論を発展させた。彼女の議論の発展過程は、単独の天啓としてではなく、当時の哲学的対話の中での位置取りの修正として記録されている。

8-4|検討課題として残る例

脱構築とフェミニズム批評における「理論の高度さ」と「対人関係」の乖離――厳密に一般化出来る比較としてここで指摘出来るのは、20世紀後半の批評理論において、理論の精緻さと、理論の担い手自身の対人関係上の振る舞いとの間の乖離が、繰り返し批評史上の論争のテーマになって来たという事実そのものである。

§9

性加害・ハラスメント等の倫理問題との関係(一般論として)

ここでは特定の個人を名指しせず、確認されていない情報や噂を事実として扱わないという原則の下で、一般的な構造のみを検討する。

9-1 知性と倫理的成熟の乖離が起こりやすい構造的条件

第4章・第5章で見た通り、分析的知性の高さは、自己正当化を精緻化する能力としても機能しうる。この一般的傾向が、知的権威を持つ人物と、その人物に対して非対称な立場にある対人関係――師弟関係、批評家と若手作家、教員と学生等――において、特に危険な形で現れる構造的条件がある。権威者が「自分の欲望を理論化する言語」を豊富に持っている場合、その言語は被害者側の違和感を「あなたの理解が足りないだけだ」という形で無効化する道具として機能しうる。加害者自身が、自らの行為を「関係の複雑さ」「時代の空気」「相互の合意の曖昧さ」といった、一見洗練された言葉で説明し直すことは、バンデューラの言う道徳的正当化・婉曲的ラベリングの典型例である。知的権威は、被害を訴える側の「語る権利」に対して、構造的に不均衡な信頼性を与える。これはスピヴァクの言う代表の権力性が、対人関係の水準で作動する例である。

9-2 「説明出来るようになること」と「理解すること」は同じか

第5章で確立した区別を、ここで再度、より直接的な形で適用する。「自分の過ちを上手く説明出来るようになること」は、次の条件を満たさない限り、「本当に理解すること」とは区別出来ない。

  • その説明が、加害の影響を受けた側の経験や視点を出発点にしているか、それとも自分の心理状態や動機を出発点にしているか。
  • その説明の後に、行動の変化が持続的に観察出来るか(説明はその場限りの言語行為だが、理解は行動の再編成として現れるはずである)。
  • その説明が、他者からの反証や異議に対して開かれているか、それとも自己完結した物語として閉じているか。

これらの条件を満たさない「上手い説明」は、加害の言語化ではなく、加害の再演――被害者の経験を再び自分の言葉で上書きし、解釈の主導権を取り戻す行為――になりうる。この危険性こそが、知性の高さがそのまま倫理的成熟を保証しない、という本論考の中心的主張の、最も具体的な現れである。

§10

「成熟した批評家」とは何か

これまでの議論を統合すると、次のような多層的な条件が導かれる。単一の徳目ではなく、互いに緊張関係を持つ複数の要求の同時保持として定義するのが妥当である。

  1. 対象への厳密さ――対象を単純化したいという自分の欲望に抗い、対象が実際に持つ複雑さを保持しようとする(アドルノの非同一性の保持)。
  2. 自分自身への厳密さ――対象を分析する能力を、自分自身にも同じ強度で向け続ける(マードックの「注意」)。
  3. 自分の欲望への自覚――自分が何故その対象を、その仕方で読みたいのかを問い続ける。
  4. 他者への倫理的配慮――解釈という権力行為が、他者の自己記述の権利とどう緊張するかを意識し続ける(スピヴァクの代表の政治学)。
  5. 自分の解釈を絶対化しない――「わからない」と言える。
  6. 自分の理論を疑える――理論が、対象への忠実さではなく、自己防衛の為の道具に転じていないかを監視する(バンデューラの道徳的離脱の逆機能)。
  7. 過去の発言を修正出来る――ソンタグの事例のように、公にした過去の立場を、より正確な理解の為に書き換える意志を持つ。
  8. 知性を自己批判にも使う――分析的知性を、対象の防御としてではなく、自分の欲望や権力性の検証にも投入する。
  9. 一般論に逃げず具体的経験から考える――フェルスキの言う「愛着」を切り捨てない。
  10. 他者の主体性を奪わない――他者を「読む」ことと「所有する」ことの境界線を、常に引き直し続ける。
  11. 自分自身も批評対象にする――「何故私はこう読むのか」という問いを手放さない。

これらは達成される「状態」ではなく、維持され続けなければならない緊張状態である。

§11

ユーザーの仮説への反論

以下、要請通り、この仮説に対する批判を積極的に展開する。

11-1 「生理的な厳密さ」は危険な概念ではないか

最大の危険は、この概念が検証不可能性を内包している点にある。「自分の感覚に嘘をつかない」という基準は、外部から反証することが原理的に困難である。これはナルシシズムを「深い感性」として自己正当化する、まさにバンデューラの言う道徳的正当化のメカニズムに転用されうる。この概念自体が自己欺瞞の温床になりうることは、仮説の提示者自身も認めている。しかしそれを認めるだけでは不十分である。検証不可能な基準に基づいた批評を、他者はどう評価すればよいのかという問いに、この仮説はまだ答えていない。

11-2 支離滅裂な文章を過剰に擁護していないか

第3章で提示した区別(反復可能性、他者検証への態度、対象への集中度)は有用だが、これらの基準自体、事後的にしか適用出来ない。つまり、ある文章が書かれたその時点で、書き手は自分の曖昧さが「対象への忠実さ」なのか「粗雑さ」なのかを判定する手段を持たない。この仮説は、判定を先送りにする権利を書き手に与え過ぎている疑いがある。

11-3 論理的明晰さにも倫理的価値がある

この仮説は、論理的明晰さを「対象を歪める危険」の側に置きがちである。しかし、論理的明晰さには固有の倫理的価値がある。それは検証可能性である。曖昧な文章は、他者がそれに反論することを実質的に困難にする。反論出来ない言説は、権力を持つ側にとって都合よく機能しうる(誰も間違いを指摘出来ないからだ)。明晰さは、単に対象を単純化する暴力であるだけでなく、自分の主張を他者の批判に晒すという、倫理的に重要な脆弱性を引き受ける行為でもある。

11-4 パトスとエートスの二分法は単純過ぎないか

より深刻な批判は、「内発的」という語自体が疑わしいという点にある。サラ・アーメッドが強調する通り、感情は真空の中で生じるのではなく、社会的な方向付けによって形成される。何に対して違和感を覚えるか、何を「無視出来ない」と感じるかということ自体、既に教育・階級・文化資本によって形作られている。純粋に内発的なパトスというものは、おそらく存在しない。

11-5 自分への誠実さが他者を傷付ける場合

これが最も重い反論である。「自分の感覚に忠実であること」を優先した結果、他者を傷付ける言説を生産することは、現実に起こりうる。むしろ、この二つの価値が衝突する場面こそが、批評家の成熟が試される決定的な場面であると位置付けることだ。誠実さを理由に他者への配慮を後回しにする者は、実は「自分の感覚への忠実さ」を、責任からの逃避の為に利用している可能性が高い。真に成熟した批評家は、この衝突が生じた瞬間に、自分の誠実さの主張自体を疑いの対象にすることが出来る者である。「自分に誠実であること」の最終審級は、その誠実さの結果を引き受ける意志があるかどうかにある。

§12

最終的な問い

12-1 批評家とは何をする人か

問いに対する答えは、二者択一ではなく、時間軸を導入することで統合出来る。批評家は、しばしば世界を説明したいという欲望から出発する(これ自体は否定されるべきではない――ソンタグもフェルスキもスピヴァクも、皆この欲望を持っていた)。しかし成熟した批評家であることの核心は、この欲望を持ちながら、同時にこの欲望を警戒し続けることにある。説明したいという欲望を消すことは出来ないし、消すべきでもない。問題は、その欲望が対象を歪めていないかを、書きながら、そして書いた後も、絶えず問い直す構えを持てるかどうかである。

12-2 批評家の成熟とは何か

知識や理論を増やすことは、批評家の成熟の必要条件ではあっても十分条件ではない。むしろ成熟とは、自分の知性が処理しきれないものが確かに存在するという事実を、以前より正確に――つまり、より具体的な形で――感じ取れるようになることだと言える。単に「世界は複雑だ」という漠然とした謙虚さの表明は、成熟の証にはならない。マードックの言う「注意」がそうであるように、成熟とは、自分の理論の限界がどこにあるのかを、対象に即して具体的に指させるようになることである。

今後更に考える為の10の決定的な問い

  1. 「自分の感覚に嘘をつかない」ことの検証可能性を、他者に対してどう担保出来るか。第三者による検証を要求すること自体が、この態度の本質を損なわないか。
  2. アドルノの否定弁証法における「非同一的なものの保持」と、単なる思考の混乱とを、書き手自身が執筆の最中に区別する実践的な方法はあるか。
  3. フェルスキの「愛着」の擁護と、批評が本来持つべき否定的・批判的機能とは、最終的に両立可能か、それとも本質的にトレードオフの関係にあるか。
  4. スピヴァクの代表の政治学(vertreten/darstellen)は、対人関係における加害の分析にどこまで応用可能か、あるいは応用に無理があるか。
  5. バンデューラの道徳的離脱理論は、個人の心理過程を説明するが、それが批評家・知識人という「言語を専門的に操る職能」において、何故特に強化されやすいのかを説明する理論はまだ十分に構築されていない。この空白をどう埋めるべきか。
  6. 「説明出来ること」と「理解すること」の区別を、被害を受けた側ではなく、加害を行った側が自分自身に対して適用する場合、その区別は原理的に可能か(自己欺瞞のループに陥らずに)。
  7. アーメッドの言う「感情の社会的方向付け」を前提にすると、「内発的パトス」という言葉自体を放棄すべきか、それとも「社会的に形成されながらも個人の身体において固有の仕方で経験される感情」として再定義すべきか。
  8. ソンタグの自己修正のような「後年の書き直し」は、批評家の誠実さの証拠になりうるが、同時に、都合の悪い過去の立場を「若気の至り」として無害化する手段としても機能しうる。この二つをどう見分けるか。
  9. ポール・ド・マンの事例のように、理論そのものが自己の過去の隠蔽に(結果として)加担しうるとすれば、批評理論を評価する際に、その理論の提唱者の伝記的事実をどこまで、どのように参照すべきか。
  10. 「成熟した批評家」の条件として挙げた諸要素(第10章)は、互いに緊張関係にあるものが多い。この緊張を「解消すべき矛盾」ではなく「維持すべき状態」として肯定する時、批評家は実践的にどうやってその緊張の中で書き続けることが出来るのか――疲弊せずに。

このリサーチから得られた最も重要な発見・5点

  1. 「生理的な厳密さ」は、感性や直感という能力の話ではなく、厳密さという価値が複数の次元(論理的整合性への忠実さ/自分の経験への忠実さ)を持つという主張として読み直すことが出来る。この二つは対立するのではなく、多くの場合、違和感が先行し、論理が事後的に追い付くという時間差の関係にある。
  2. 知性・自己認識・倫理的能力は、階層的に独立した三つの能力であり、いずれか一つの高さが他の高さを保証しない。特に、分析的知性は自分自身へと向けられた時、自己認識ではなく自己防衛(バンデューラの道徳的離脱)として機能しうる、という点が本論考の理論的核心である。
  3. 「自分の行為を説明出来ること」と「自分の行為を理解し、責任を取れること」は、原理的に別の能力である。前者は言語行為として一回で完結しうるが、後者は行動の持続的な変化によってしか検証出来ない。この非対称性は、知的能力の高い人物ほど自己免罪を精緻化しやすいという逆説の核心にある。
  4. 「曖昧さ」と「粗雑さ」を区別する基準は事前には存在せず、事後的な検証(反復可能性・他者検証への開放性・対象への集中度の持続)によってしか判定出来ない。これは、この仮説の最大の弱点でもある――執筆の時点では、書き手自身にも自分の曖昧さがどちらであるかを確実には知りえない。
  5. 他者を解釈する行為(批評)は、他者の自己記述の権利と本質的に緊張関係にある。この緊張は解消出来ないし、解消を目指すべきでもない(解釈の放棄は批評の放棄を意味する)。成熟した批評家の条件とは、この緊張を消すことではなく、解釈が権力行為であることを自覚し続けながら、それでもなお言葉にしようとする構えを維持し続けることにある。
主要参考文献
  • Adorno, Theodor W. Negative Dialectics (1966), trans. E. B. Ashton. Routledge.
  • Ahmed, Sara. Living a Feminist Life. Duke University Press, 2017.
  • Bandura, Albert. “Moral Disengagement in the Perpetration of Inhumanities.” Personality and Social Psychology Review, 3 (1999): 193–209.
  • Bandura, Albert, Claudio Barbaranelli, Gian Vittorio Caprara, Concetta Pastorelli. “Mechanisms of Moral Disengagement in the Exercise of Moral Agency.” Journal of Personality and Social Psychology (1996).
  • Felski, Rita. Uses of Literature. Wiley-Blackwell, 2008.
  • Felski, Rita. The Limits of Critique. University of Chicago Press, 2015.
  • Felski, Rita. Hooked: Art and Attachment. University of Chicago Press, 2020.
  • Lorde, Audre. Sister Outsider. Crossing Press, 1984.(所収:“Poetry Is Not a Luxury,” “The Uses of Anger,” “Uses of the Erotic”)
  • Murdoch, Iris. The Sovereignty of Good. Routledge, 1970.
  • Sontag, Susan. On Photography. Farrar, Straus and Giroux, 1977.
  • Sontag, Susan. Regarding the Pain of Others. Farrar, Straus and Giroux, 2003.
  • Spivak, Gayatri Chakravorty. “Can the Subaltern Speak?” In Marxism and the Interpretation of Culture, eds. Cary Nelson and Lawrence Grossberg. University of Illinois Press, 1988.
  • de Man, Paul. Wartime Journalism, 1939–1943, eds. Werner Hamacher, Neil Hertz, Thomas Keenan. University of Nebraska Press, 1988.
  • ド・マン事件の経緯については、1987年12月1日付ニューヨーク・タイムズ紙の報道、および Peter Brooks, “The Strange Case of Paul de Man,” New York Review of Books (2014) を参照した。

本文中の各思想家の議論は、いずれも一次資料そのものの引用ではなく、複数の二次的解説・書評・学術的要約を横断的に参照した上での要約・再構成である。原典に当たる際は、必ず一次資料そのものを確認されたい。